アンブローシアの南北に連なる中央山脈には、一か所だけ大きく抉れたようになっているところがある。
そこには山脈の最高峰があったというが、世界最大級のカルデラ盆地の中ほどに横たわる湖が、その名を受け継ぐのみだ。
峰々の名残は人々の生活圏の一部となり、その時代ではよく知られた土地となった。
アンブローシア連合王国サダルバリス王家がお出ましになられた土地、ハイランディアと呼ばれるところだ。
歳も十を越え、老臣に領主の世継ぎとしての自覚を促されつつあっても、トール・グリペン・トラファルガは、まだ「おしのび」と称して領内の至るところを駆けずり回っていた。
兄弟のいない彼は大抵、近親の同世代の者たちを引き連れていたが、傍目には迷惑以外の何ものでもない。だから、その日はどこに連れ回しても喜んでついて来る連中だけで出掛けていた。
山腹の砦の姿が見えてくると、それまで息を切らしつつ、消えかけた山道を登ってきた少年たちの表情が明るくなった。国が今の形になろうと鳴動していた時代に建てられ、もう長い間放置されていたものだ。とはいえ、たまに手が入れられるらしく石造りの砦は見た目崩れているところも無く、いわゆる「何か」が出そうな感じも無かった。
「ついて来たのはいいんだけどさあ、にいちゃん」
従弟のエーリックが言った。
「ここまで来たんだからそろそろ教えてくれよ。なんでここに来ることにしたの?」
トールはわざと芝居がかった口振りにした。
「よーくぞ聞いてくれた。それは昨日の夜のことだったのだ」
「普通でいいよ、にいちゃん」
「……だからなあ、しょんべんしに起きたら親父たちがまだ起きてて、聞こえたんだよ。しばらくこの砦に誰も近寄らせるなって」
「それでぼくたち、夜明け前にたたき起こされたの?」
「そうだ。うまくいけばなんで誰も近寄らせないかわかるだろ」
「ええーーー!?」
少年たちは口々に不満を表したが、こんなやり取りはいつものことだった。結局楽しんでいるのだ、こいつらは。
「いいだろーよ、食べ物と飲み物は朝飯分まで俺がたっぷり用意したんだから。何も無けりゃ眺めのいいところで腹いっぱい食って帰りゃいいんだからさ。だけど親父たちの話し方じゃあ、間違いなくここには何かある」
「それが危ないものだっていう考えは無いのか、にいちゃん」
「そんときはそんときだ」
そんな話を交わしながら、砦の前まで来た。
砦はごく単純なつくりのものだ。二層で下が広間というか詰所、上がいくつかの部屋に仕切られている。領内にいくつもあるやつだ。
「さあ入るか」
「腹ごしらえは? にいちゃん」
「屋上で食う。それが一番いい」
ここは有無を言わせなかった。
薄暗い広間は、予想以上に片付いていた。最近に掃除がされたみたいだ。
置かれている物は何も無く音が妙に響く。一通り歩き回ってから、奥の階段から上に行くことにした。
二階は下より大きく明かり窓がとられており、昼前の日の光で充分明るかった。小さなロビーのようになっている周りにドアも無い部屋が並んでいる。時計回りに覗いていった。
こちらもきれいに片付いた空き室ばかり。拍子抜けだ。
「なにもないね」
「うん」
「はずれだったね、にいちゃん」
「うるさい。だったら上に出ようぜ」
階段に向かおうとしたときだった。トールは何か妙な匂いを感じた。
かすかな甘い匂い。
領主の息子といえどもめったにおやつに出ないなんとかいうケーキの匂い。
トールは皆に物音を立てないよう促しながら、するかどうかわからないくらいの匂いの元に近づいていった。
一番右側の部屋だ。さっきは何も無かった部屋。
やっぱり何も無い部屋だ。でもわからない。
皆の手を繋がせて、合図とともに一気に足を踏み入れてみた。
何も無かった部屋が、ありすぎる部屋に変わっていた。
雑然と荷物が置かれた真ん中にテーブルがあって、その上の黒いケーキらしきものが匂いの元だった。
向かい側の椅子に苦笑いを浮かべた女が座っていた。ケーキに入れたばかりらしいナイフを手にしたままだ。
このあたりでは珍しい長い金髪に青い目。服も変わっている。トールが今まで見た限りでも、美人というか可愛いというかまあそんな感じの若い女だ。
こんな突拍子も無いとき、自動的にトールが一番に口を開くことになっていた。
「こんにちは」
「はい、こんにちは」苦笑いがおしとやかな笑みに変わった。
「あの…もしかすると、親父の愛人さんでしょうか?」少しばかり推理してみた。
「違うわよっ」即答が返ってきた。
ちょっとむっとしていた。
睨み合うでもなく緊張感漂うでもなく、間抜けたしばしの沈黙の後、女はため息をついて、彼らを手招きした。
「来なさい。あたしだってしばらく食べられない取って置きのケーキ食べさせてあげるから」
どうも嫌そうな顔をしていたので一応遠慮しとこうか。とトールは考えたが、横のエーリックたちを見てこれは止められないと思い直し、素直に好意は受けることにした。
人数分に切り分けられた黒いケーキを、渡されたフォークで一口食べてみた。確か材料が日持ちしなくてなかなか食べられないあれだ。なんだったっけ? とトールは思う。
女はエリスと名乗った。
「実はこれでも魔女なのよ」
さりげなくとんでもないことを言う。
魔女とか魔法遣いなんて、教会の昔話にそういう者がいたという話はあるが、ほぼお話の中の存在だった。まして今は街道や航路が整備されて人の行き来が増え、世界の様子なんかもかなり知られているのだ。そんな得体の知れない者がいそうなところは無いはず。
「言いたそうなことはわかるけど、さっき目くらましの術見たでしょ」
確かにそうだ。結局ばれたが。
「ここの領主様の息子でしょ、あんた。ここを借りるときに領主様だけ術を無効にして入れるようにしたのよ。あんたはその息子だから術が効かなかったわけ。ほんとならここの代わりに隣の部屋に出て、帰りはこの出口に戻るから気づかないのよ」
一応理屈は通ったことをエリスは言っている。だが率直すぎるかな?
トールは何かをはぐらかそうとする空気を感じた。横ではエーリックたちが泣き笑いの顔でケーキを頬張っている。
トールの顔を窺っていたエリスは、切り札を出すかのように手のひらを向けた。
盾の形をした金色のプレートがあった。
それを見て、トールは何も訊けないということを悟る。プレートの真ん中に角の生えた白い馬のレリーフがあった。実際にも言い伝えにも、そんな生き物はいない。だが、領主であり父であるフレドリク・シグに言い聞かされてきたことがある。
<「それ」を見せた者を信じよ>
それが何を意味するのか、まだ教えられていない。それでも必ず守れと約束されたことだった。
「わたしと会ったのはナイショにしときなさい。でないと怒られるわよ」
肯くしかなかった。エリスは満足げに微笑んだ。
その後、デザートが先になった形だが、トールが持ち出してきた食べ物はそこで食べることになった。
エリスも何品か出してきた。さっきのケーキとは違い、味は悪くないものの変な包みに入った固まりみたいなものだった。それを食べるトールたちをエリスはニヤニヤして見ている。
やっぱりケーキを分けたのが悔しかったんじゃないかとトールは思ったが、口には出さずに置いた。
エリスは肝心なところの質問は許さなかったが、自分からは色々と話してきた。
世界中を調べものをして回っていて、そこいらで見聞きしたことなど、まあ話は面白いものばかりだった。
自称魔女がこんなに愛想が良くていいのか、と思うくらいだ。
食事を終えて、口裏合わせの話をして、エリスに丁寧に挨拶して、砦を出る。
今回は何かよくわからない「おしのび」だったが、皆満足した。なにぶん最初に食べたあれは美味しかった。
というか、あれで誤魔化されたような気がしたのだが…。
しばらく山を下ったところで、「おしのび」のいつもの幕切れが始まった。馬に乗った青年が渋い顔をしてトールたちに近づいてきたのだ。
お守り役のクリステンだ。エーリックと同じく従兄弟だが、こちらはトールの十三歳年上。さんざん自分たちの矢面に立ってくれているから、面と向かうと少々体裁が悪い。
「…まったく、あなたがたは油断も隙も無い…」
こんなときのクリステンの初めの一言も、すでにパターンが出尽くしていた。
「で、何かありましたか?」
「何も無かった。ただの空き砦だったよ」
「そうでしたか。でも次に何かあったら今度はひどいですよ。御父様の御言い付けはしっかり守ってください。もっとも、今回は言い付けが出る前でしたが」
「…うん、わかった」
クリステンはその後、この件については何もすることは無かった。トールとその仲間たちの口と結束は妙に固かったからだ。
実は一度だけ、トール一人で砦に行ったのだ。
だがそのときはもう、何もかもなくなっていた。