<第三章 此度、踏み固められしその地に>

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 カロン南縁部、旧カロン南方軍駐屯地セネカ。
 アンブローシア北辺伯の主力・騎馬歩兵合わせ8万2千は、スヴェッソン市に集結するカロン軍7万5千と睨み合いを続けていた。
 カロンは徐々に部隊を追加し、いずれは北辺伯軍を上回りやがて凌駕することとなろう。そのときが睨み合いが終わるときだと、北辺伯アラルド・トーレスは確信していた。

 平原の真ん中の駐屯地、その中央に南方軍司令部を兼ねていた城塞がある。
 その楼上に、北辺伯アラルドはいた。日がな遠眼鏡でスヴェッソンを睨み続ける日々が続いていた。

 塔楼に登る人の気配がした。アラルドは振り返ることなく、微動だにしない。
「また護衛も無しですか? 物騒ですよ」
 かつてのデーニッシュ侯、エルマー・ファルンベルズだった。
「誰が何処からわしを狙うんだね?」振り返らぬまま訊ねる。
「いや、例えば私が後ろから…」
「で? その後逃げられると思うか?」
「思いません」
「では、冗談なぞ言うな」
「…すみません」


 領地や家臣を失った元デーニッシュ侯を匿ってからいくらか経つ。
 トーレス家配下の武将の一人として収まったエルマーだが、アラルドは少しだけ彼に、気に入らない部分を見つけた。軽口が過ぎる。
 以前からそういう男だったのかと、エルマーとともに落ち延びたファルンベルズの者に訊いてみたのだが、どうやら違うらしい。
 父や妹、補佐役だったラッセルらを失い、自分だけ落ち延びたのを苦にしているのではないか。そう聞いた。
 情けないものだとどやしつけてやろうかとも考えたが、時々いなしはするものの、軽口を言いたいままにさせることにしていた。

「聞きましたか?」
 しばし続いた沈黙を、エルマーが破る。

「王都がトラファルガの手に落ちた。新王となる前のギルベルト殿下は自決し、残ったヴァイタリス殿下は解放されバッカスに逃れた。それがどうした?」
「これからどうなされるのです?」
「変わらぬ」
「変わりませんか…?」
 アラルドは再び沈黙し、しばし間を置いてから言った。
「そうだな、カロンに降り、アンブローシア侵略の尖兵ともなるか。それも面白いかも知れぬ。何せ、義理立てする王家は無くなったのだからな」
 今度はエルマーが押し黙った。
 アラルドは声に出さず笑い、エルマーに向かい初めて振り返った。
「そんな訳がなかろう、つまらぬ冗談だ」

 北辺伯は空を仰いだ。
「つい先だってまでの南方軍司令官ペテロパウロとは、いずれ敵となろうが友であった」
 まるで、遥かに過去だったかのような口振りで話す。
「やつの最後の私信に、任を解かれ、部隊長に降格されたとあった」
 これは腹心以外に初めて話すことだった。
「このことが、何を示しているか、わかるかね?」
 エルマーにも、スヴェッソンに集結するカロン軍が援軍としてはおかしな動きをしていると、察することができていた。彼は自分の予想で最も悪いものを答えることにした。
「カロン本国より何者かが派遣されたのです。そして今集結しているカロン軍は単なる援軍ではなく、アンブローシア制圧を意図してのものだということです」
「最悪の予想を言ったな? よし、君は優秀だ」
 北辺伯は微笑んだ。

 アラルドは話を続ける。
「軍団長として来たのは、ポルタという帝国貴族だそうだ。ペテロの見立てでは出世欲のわりには無能だそうだ。安心したかね?」
「いいえ」
「よろしい。…参謀として付随してきた者に、イヴァン・エルナントという者がいる。これが曲者とのことだ。いかにも、虫をも殺さぬような男だそうだ」
「それは…厄介そうですね」
「そうだ。初めて話すが、こちらの間者が一人として帰ってこん。どうだ、逃げたくなっただろう」
「いえ、どう対抗してやろうかと楽しくなります」
 エルマーも笑った。虚勢ではなかった。

「北辺伯、私にもお話しておきたいことがあります」
「なんだね?」
「王都を制圧したトラファルガは、王家の本家筋として、王家の墓所を暴くそうです。フォビア王を初めとした王族の方々の、御身体を検分すると」
「どこからの情報だね?」アラルドの声が険しくなった。
「私は軍学教授たるシラー伯マティアスの第一期生です」
「そうか…なるほど、そういう大義名分もあるか。なるほどな」
 空を仰いで大声で笑った。愉快だからというようには見えなかったが、豪快に笑った。
「あの若造、本気で国をどうにかしようと考えたか。そうか!」
「はい。国を平定するつもりだそうです」
「…面白い、では勝負だな」
「はい?」
「トラファルガの若造がアンブローシアをまとめ、カロンに攻め込む気を無くすような軍勢を差し向けてくるまで、我らがここを守る。守り切れれば我らの勝ちだ。アルケスの戦いのことは習ったかね? おかしなことに、カロンはいまだにあれの再見を恐れているのだそうだ」
「カロンの集結の方が早く、押し切られれば負けですか?」
「その通りだ。なあエルマー」
「なんでしょう?」
 北辺伯アラルドは真顔に戻っていた。
「君はまだ若い。いざとなれば逃げてもいいぞ」
「いえ、もし万一、最後は落ち延びようとも、できうる限り貴方に従います」
 デーニッシュ侯エルマーは久しく感じなかった高揚を身体に受け止めた。
 それはもしかすると自棄とも呼べるものかもしれなかったが、いやいい、構うものか。




 ネクトールに入り込みつつある、アルリシャ伯勢力圏の前線にあたる城に、アンブローシア宰相アルフォンス・ディルガンはいた。
 名目上は食客であり、特に不自由の無い状況にありはしたが、宰相は後悔していた。
 他に手は無かったとはいえ、なぜアルリシャ伯のもとに転がり込んでしまったのだろう…軍勢を任されはしたが、彼の思いのままになるはずが無かった。むしろ、副官以下彼の身柄を押さえておくためにいるかのようだった。
 あんなに時間を掛け手間を掛け、宰相となり手筈を整えたのに、自分の軍勢があれほど早く瓦解するとは、今でも信じられなかった。

 不意に人の気配に気づく。
 宰相はもう少しで椅子から転げ落ちるかもしれなかった。それほど不意だったのだ。

 アルリシャ伯アリアベルタ・デ・ファーナが目の前に立っていた。
 美しい女だった。だがその美しさの中に、前のアルリシャ伯エリアバルドの面影を見た。アルフォンスは恐怖を覚えたが、それをおくびにも出さぬよう、必死で押さえ込んだ。
 彼はアリアベルタを侮っていた。所詮女だ。どうにでもしようがあると考えていた。アリアベルタがアルリシャ伯を継ぐ際、彼女を傀儡にしようと図った重臣を、利用できるだけ利用して放逐したという話があったが、話半ばにも信じていなかった。単なる権力闘争だと思っていた。
 それをまた、今更ながら後悔していた。


 アリアベルタはにこやかに笑い掛けていた。
 後ろに重臣のヴァレーリアとクラウディオの姿があったが、宰相を遠巻きに見るようにしたまま、距離を置いていた。

 アルフォンスにはとても長く感じられた短い沈黙の後、アリアベルタは言った。
「御機嫌はいかが? 宰相閣下」
 宰相は冷静を崩さないつもりで応える。
「上々ですよ。アリアベルタ殿」
 アリアベルタは一層美しく微笑みながら、用件を伝える。
「トール・グリペン・トラファルガ率いる勢力が、王都トゥバンを制したそうです。なにか御感想は? 宰相閣下」
 アリアベルタはとても楽しそうに訊く。
 最早名目上でもなくなった宰相、アルフォンス・ディルガンは黙るしかなかった。アリアベルタの目の奥に何か得体の知れない光を見て取ったのだ。ここは黙して語らぬが正しい。そう思った。

「おや、語るべきことは何もありませんか。さすがに今のトール卿の位置に自分がいるはずだったなどと、大それたことは考えていらっしゃりませんね。そうでしょうね」
 アリアベルタは涼やかに微笑む。
「…」
 黙るのが正解だとは思った。だが、それで切り抜けられるものでもない。アルフォンスに残る最後の才能が、彼にそう告げた。

「もう、私が何故閣下を匿ったかおわかりでしょう? 貴方が話すことが無かろうと、私には沢山お訊きしたいことがありますのよ」




 王国が瓦解するならカリスタを手に入れさせてもらおう。
 カリスタ侯アーガトン・ハインラインがそう決心したのは、彼に差し向けられた刺客を返り討ちに遭わせたときだった。
 隣りのケイニクラ家当主急逝は気の毒だったが、彼にとっては前兆として申し分なかった。もしかすると刺客が失敗しようとも、その主にとっては、彼に王国への叛意を抱かせる布石となるといった筋書きだったのかもしれないが、乗せられた振りをするのも良かろうと考えた。

 今はヴェスタラントとも呼ばれるカリスタ沿岸部、かつての根拠地を取り戻し、取って返しカリスタ南部を臨むまでは良かった。
 キャストル家への読みが外れたのが痛恨の極みだった。イアン・ギュネスを侮っていた。
 息子ニコラウスが言っていたではないか。キャストル先代の治世、その後半を支えたのは実はイアンであったと。

 カリスタ侯が制した地域はキャストル勢に分断され、カリスタ軍主力は東カリスタに封じ込まれ、補給路も退路も絶たれた。
 もっとも、キャストル主力は侯の居城アルカスに迫っており、退けたとしても戻るところがあるかも定かでなくなった。このままキャストルに自領を削られるのを馬鹿のように眺めるばかりとなる。その後はイアンの胸先三寸だろう。


 手詰まりのまま、東カリスタ・プロシオンにて幾日も過ぎた朝だった。
 急用である、との息子ニコラウス・ハインラインの伝言があった。ニコラウスの執務室へ来て欲しいとのことだ。当主を呼び出すのかと、アーガトンは訝しげにその部屋に向かった。

「不躾になんだ?」開口一番、思わず口に出た。
 ニコラウスは人払いをしていた。部屋の中には彼と子供が一人。男の子だ。

「なんだ? その子は」
「顔をよくご覧ください、父上」
「顔だと…」

 カリスタの智将の厳しい顔が緩んだ。
 その利発さを見止め養女にし、気に入ったハイランディア領主の息子に11年前に嫁がせた娘の顔に、とてもよく似ていた。
 こんなことになったために、何年も会わず仕舞いだった子だ。
「カールか…大きくなったなぁ」

 カリスタ侯は思わず、カール・シュタルケル・トラファルガを抱きしめた。

 ふと我に返ったカリスタ侯はいささか慌てた。
「待て! 何故カールがここにいるんだ!?」
 プロシオンは確かにトラファルガ領に近いが、プロシオンとの間には、軍勢はいないとはいえキャストル勢のシャミイヤがある。
「あまり知られてない抜け道があるんだよ」
 カールが答えた。アーガトンはその無謀さに腹が立つ前に、わざわざこんな子供がやって来た意味を考えた。
「爺さま、伝言があります」
 はっきりとした口振りで、カールは言った。トラファルガの翼獅子の紋章が押された封蝋で閉じられた封書を、カリスタ侯に差し出す。
「親父さまから、キャストルは停戦させるからしばらく待つように。仔細はこの書状をと。お袋さまからは…ひとことも変えずに伝えよと言われたんだけど…」
「なんだ? 言ってみよ」
「…御父様は思い通りに行かなくなるとやけっぱちになります。他の孫の顔が見たいのなら、それは止めてください」
 アーガトン・ハインラインはもう一度カールを抱きしめた。この子が遣わされた理由を理解したのだ。自分の気を変えるために、いくらかの危険と引き換えに来たのだ。
「…わかったと、そう伝えてくれ」


 おそらくトールからキャストル家への働き掛けは始まっているのだろうが、念のためキャストルに気取られぬよう手筈を整え、カールとその随伴者たちを送り出した。カリスタ侯は城門の上から、小さくなっていく孫の姿を見つめていた。
「エルザの子だ。いい子に育っているようだなぁ」
 ニコラウスが応える。
「ええ、友好者の子でなければ早くに始末したいくらいです」
「もちろん冗談だよな?」
「冗談ですとも。そんな馬鹿な事はできません。後が怖過ぎます」
 ニコラウスはアーガトンの目を見て、ただの爺いからちゃんとカリスタ侯に戻っているのを確認すると、父と共に甥っ子の姿を見つめることにした。


                 
王暦265年5月当初のアンブローシア勢力図
265年5月アンブローシア勢力配置


 内戦勃発から九年目、アンブローシアに残る独立勢力も数えるばかりになった。

・トラファルガ家(237万:臣従込み396万)
 周囲はほぼ全て不戦同盟中。
 王家残存勢力とはもう戦うつもりは無い。

・ヅィバン家(103万:臣従込み163万)
 宿敵ディルガン家を完全に滅ぼす。
 ネクトール本領に近づくアルリシャ伯を警戒している。

・ネクトール公(90万:臣従込み138万)
 デーニッシュ侯に続き、マジョラム通商会議を滅ぼす。
 ソーマに遠征しているうちに、北部ネクトールはアルリシャ伯が征しており、軍勢を反転させ迎え撃とうとしている。

・アクラブ伯(68万:臣従込み100万)
 スコォドラ・アッズーラより北上、ヅィバン家とともにディルガン勢の領地を分け合った後、南部を窺っている。

・キャストル家(70万:臣従込み100万)
 アソープス川流域を征しカリスタへ。
 カリスタ侯との戦いを優勢に進めていたところへ、背後からカーダモン伯の攻撃を受けている。

・カーダモン伯(81万:臣従込み99万)
 ソーマ公勢力を飲み込み、キャストル家の横腹を突いている。

・アルリシャ伯(78万:臣従込み81万)
 北部ネクトールを征したが、ネクトール公、ヅィバン家、アクラブ伯に囲まれた状況は、良いとは言えない。

・プロセルピナ進攻軍(74万:臣従込み80万)
 カリスタ沿岸部をほぼ征す。
 キャストル家とともにカリスタ侯領を削りつつあるが、トラファルガの動向が気になる。

     





 <王暦265年>
 5月、アルクトゥルス伯レイ家の捕虜だったセレスティーヌ・レイ(2 5 6)、同じくノルティエラ家のエルナンド・ディナダ(4 2 4)、パスカル・ヴュイアール(4 6 2)を登用。パスカルをメイベル内政軍団、セレスティーヌをヴァナディッチ内政軍団に編入する。
 アクラブ伯、アルフェラッツ家と同盟
 南ユーロパ連合(サダルメリク家)、シルマ家、サダクビア家、アルクトゥルス伯、ドゥール家、デネボラ家、エルライ市、アルフィルク家、を臣従
 アンカ市、シェルタン家、カリスタ侯を従属。キャストル家とプロセルピナ・ノルド州軍に挟撃されていたカリスタ侯の命運はどうにか繋がった。
 グラフィアス家、サダルバリス家が従属志願。これに伴い東分家イーストランド、北辺伯、海軍、ハリス市も従属する。

※ハリス市でサダルバリス勢と領を接していたため。

 トールはアルワイド領となった元北離宮アンゴラブに隣接するニ城に16万の兵を集めた。
 周辺を14万の軍勢で囲み、アルワイド勢約7千の篭るアンゴラブへトール以下1万8千で攻め込んだ。
 もはや決戦ではない。
 これは征伐だった。


 6月、ノルティエラ、サダルバリス両家の年配の捕虜を解放。テオバルドは当主に復帰する。
 ネクトール公の使者が訪れ、不戦同盟を結ぶ
 ハリス市、グラフィアス家、アンカ市、アルデラミン家、シェルタン家、ノルティエラ家、カリスタ侯を臣従
 メディア家、アルフェラッツ家を従属
 デリフェルト家、アマルテア家と同盟

 アンゴラブの兵糧は尽き、ここにアルワイド家は滅びる。
 アルベール・クァンタンは自決。
 アデライド・ダンカン、ヴィルム・リンデロート、アリツィア・アルディーバ、ルペルト・ギエナ、ロドリゲシ・ギエナ、マウリッツ・アルテルフは逃げ落ちた。包囲は緩ませ、落ち延び先を追うよう指示する。
 そして当主デミトリス以下アルワイドの武将10名を捕縛。離宮アンゴラブに拘禁した。


 7月、新たな臣従家から客将を招聘。
 アルフェラッツ家、メディア家を臣従。

 トールはまだ王都に向かわなかった。臣従家の兵を、客将を除き一旦それぞれの領地に戻す。王都にはクリスとレオを残し、トラファルガ軍は再び中央山脈を抜けていく。
 ヴェスタラント・カリスタへ。

265年5月から8月までトラファルガ勢力図



<王歴265年8月〜266年6月 対プロセルピナ〜アルサ回復戦>
 プロセルピナ連邦・ノルド州軍は、アルサ家、アリオト伯両家を飲み込み、カリスタ侯が手に入れたばかりのヴェスタラント・カリスタの南半分を奪い取っていた。
 騒乱に乗じてではあるが、首尾としては悪くはない。

 州知事アレクセイ・イヴァノヴィッチ・ヤノフは今が退き時だと考えていた。ハイランディアから勢力を伸ばし始めたトラファルガが、アンブローシア中央で勢力争いに加わることなく、ユーロパ方面に手を伸ばしたと知ったときより、退き時だけは誤らぬよう出来得る限りの情報を集めていた。
 裏が取れたわけではないが、今回のアンブローシア内乱において摂政デミトリス・アルワイドが何らかの役割を演じていたのは以前よりわかっていた。
 トラファルガはそのアルワイドを狙い済ましたかのように叩いた。アルワイドはとうとう最後の拠点も落ち、その家中の者が何人かこちらに逃れてきた。
 情報を重んじるヤノフ知事は、彼らからいくつかの証言を引き出すことは出来たが、デミトリス本人がトラファルガの虜囚となっている限りは、それらがどれほどの交渉材料となろうか。
 一通り、連邦政府に報告は送っていた。返事はまだ来ない。ヤノフ知事は仮拵えの執務室で、一人考えに沈む時間が増えていた。

 そう、おそらくトラファルガはこの内乱を収めるのだろう。デミトリスが旧アンブローシア王国の乗っ取りを画策した、かのヴォルテリウス・オーゼに匹敵する人物だとは思わないが、まるでそのときの再現のようだ。しかも今回はシグムンド・ヴィゲンに比べペースがより速い。
 領地の半分は失ったアルクトゥルス伯はともかく、あのマルティン・ケアまであっさりと軍門に下ってしまった。トラファルガが本気でこちらに向かって来れば、勝ち目などあるまい。
 直接衝突、それは、出来れば避けたかった。政府め、ここはアルサの半分でも割譲させられれば御の字じゃないか…。

 ヤノフ知事は政務力より軍の指揮力を買われ任命された、武闘派のホープだった。
 ノルド州はその地の旧政府残党がまだ完全に息を止めていない。それがための人選だったが、もうひとつ、彼に密命として状況によってのアンブローシア進攻が指示されていた。
 その、当の命令元の政府幹部連中からの返事が滞っているのだ。さすがに彼の猜疑心は収まりどころをみつけられない。


 執務室のドアがノックされる。
 報告はいつ何時でも構わぬと指示していた。入室を許す。
 現れたのはヴェスタラントに駐屯中の副官、ローザ・ニクラスブルグだった。ということは、良くないほうの知らせだ。

 ローザは努めて平静に報告する。
「閣下、トラファルガ本軍が再びユーロパに現れました。アルクトゥルス伯、南ユーロパ連合の軍勢と合流する動きが見られるとのことです」
「目的地はこちらだな?」
「間違いありません。閣下、これを」
 南ユーロパ連合、サダルメリク家の紋章の入った書簡を差し出す。
 知事は無表情のまま封を開け、書類に一通り目を通す。読み終えたものから、ローザの目に付くように机上に並べる。彼女はそれらを見ないよう目をそむけるが、ヤノフは無理にでも見せようとした。
「裏ルートの交渉書面だが…。いいから見ろ。マルティン・ケア、ユーロパ公、カリスタ侯の連名で、掛け合ってくれるそうだ。ノルド州はあくまでアルサの混乱収拾に手を差し伸べただけ。素直に撤退すれば不問にして頂けるとさ」
「…それは」
「願ったり叶ったりだ。私のレベルで話が付けばな」
「弱気なんですのね…」
「弱気にもなるよ。まともにやって勝てる相手じゃない。何倍の戦力で来るだろうかね? まともじゃないやり方だって多分通用しない」
「…アレク」
 ローザが私的なときの呼び方をした。
「部下は皆、あなたを信頼していますのよ。だから…」
「だからこそだ。皆、私が中央に戻ったときの大事な部下なんだ。君を…いや、君たちを失いたくは無いのだ」


 この数日後、連邦政府からの通達が来た。
 主旨はこうだ。

 プロセルピナ連邦は民衆のものであるからして、解放したアンブローシア民衆を見捨てるわけにはいかない。よって、ノルド州軍の撤退は許されるものではない。

 アレクセイ・イヴァノヴィッチ・ヤノフ知事は、私室に持ち帰った書類の束を、床に叩き付けた。



 9月、ヴェスタラント・カリスタに軍勢を集結させる目途がついたトラファルガは、プロセルピナとの同盟を破棄した。

 プロセルピナ軍はトールの主力前面に全戦力を集結。
 トラファルガは、エアリーズ諸島から旧アリオト伯領ミザールとメグレズへ毎度のごとくの城兵削りを行うが、ミザールでは奇襲が発生して失敗。

※城兵より少ない部隊で出撃したため直接攻撃では勝てない。


 10月アルリシャ伯、カーダモン伯と不戦同盟
 アリオト伯がノルド州より鞍替え。臣従させずにおいておく。

 そのアリオト伯はドゥベを包囲。
 トラファルガはメローペ、アルキオネ、ミザールに攻撃開始。メグレズには強襲を開始する。


 11月、プロセルピナ主力はメグレズ救援を試みるが、強襲に追加され倍増したトラファルガ軍に敗北。メグレズは陥落。  ミザール、メローペでは対城兵戦継続。アルキオネはプロセルピナの救援に一時兵を退く。


 12月、カーダモン伯に本領を削られていたキャストル家を従属させる。
 キャストル家従属だったプロシオン家が臣従

 メグレズ戦で戦力を減らしたプロセルピナ軍を、アルクトゥルス伯・南ユーロパ連合合同軍で牽制し、トラファルガ軍は攻城を続ける。
 ミザール、メローペ強襲にて陥落。


 266年1月キャストル家、アダーラ家、ポラックス家、アルメイサム家が臣従
 南分家デリフェルト従属

 メグレズをわざと空け、アリオトのヤノフ隊に攻めさせ、その隙にアリオトを強襲で落とす。アルキオネ、プレオネ、バイポーラ攻城開始。


 2月デリフェルト家臣従
 アルキオネ包囲継続。プレオネ強襲。メグレズのヤノフ隊を退け、バイポーラでは対城兵戦継続。


 3月、バイポーラ強襲にて陥落。プロセルピナ主力はミザール-バイポーラ間に封じ込まれる。


 4月、さらに招聘した客将に兵を補充し、アルサではなく王都方面へ向かわせる。アルサの余剰部隊もそれに合流させる。
 プロセルピナ・ノルドが従属志願するが、今は跳ね除ける。

 フェルカド、ベナトナシュ攻城開始。


 5月、アルキオネ、フェルカド、ベナトナシュ制圧。残るキノスラ、コカブを攻める。


 6月キノスラ、コカブ制圧。ローザ・ニクラスブルグ、エルンスト・ライン自決。ヤノフ知事初め15名捕縛。アリオト伯が攻城中のドゥベを除き、アルサからプロセルピナを追い払う。

265年8月〜266年6月アルサ回復戦

 ヴェスタラント・カリスタのマイア市に護送されるということを、アレクセイ・イヴァノヴィッチ・ヤノフは半ば自棄気味で聞いた。
 無様な戦いだったからだ。これまでの彼の戦いで、最も無様だったからだ。
 そして奇妙でもあった。
 圧倒的な戦力で迫りつつ、敵はまるで、ノルド州軍をなるべく機能させないよう、すなわち戦闘が起こらないよう動いた。何度か攻城中の敵を挑発もしたが、効果はなかった。
 誰が指揮しようとも結果は変わらないと、気を遣われたように感じた。
 だがそれにも拘らず、部下を失った。よりにもよってローザをだ。
 屈辱以前に、そうしてしまった自分が悔しくてたまらない。回避出来たはずなのだ。


 マイア市へは、途中海路を挟み五日ほどで到着した。ヤノフ知事とその同行者たちに対する道中の扱いは悪くはなかった。というより良過ぎる。自分は捕虜ではなかったのか? ヤノフは訝しんだ。
 彼らが連れて来られた先はマイア市庁舎だった。会議室に通される。マルティン・ケア、アルマン・レイ・アルクトゥルスら見知った顔の真中に、初めて見る男がいた。
 言われなくともわかった。トール・グリペン・トラファルガだ。
「ようこそ、アレクセイ・イヴァノヴィッチ・ヤノフ知事。では、交渉を始めようか」
 ヤノフは自分が知事であることを思い出し、居住まいを正した。


 交渉は滞りなく進んだ。内容は概ね以前裏ルートで打診のあったものだった。むしろ、さらにヤノフ知事の体裁を保つ形になっている。ある意味異常と言ってもよかったが、ヤノフ知事に異存を訴える機会は与えられなかった。


 調印の後、執務室でヤノフ知事とトールの二人きりとなった。
 内心の怒りに黙りこくっている知事に、トールは酒を注いだグラスを渡そうとする。知事は受け取らず、トールは彼の前の机上にそれを置いた。
 しばらく沈黙が続いた。
 トールは旨そうに酒をちびちびと飲むばかりで、自分から話し掛けようとしない。いい加減沈黙に耐えられなくなったヤノフ知事が口を開いた。
「どういうつもりですか?」
「なにが?」
「負けた側が言うのもなんですが、先の交渉は茶番以外の何物でもありませんが?」
 トールはまた酒を嘗める。
「…まあ、茶番だろうな」
 ヤノフはトールの口調に合わせることにした。
「惨敗した私に恩でも売ろうというのか?」
「…別に。あんたが国でどうしようが、いや、どうなろうが、か? そりゃあんた次第だ。俺はアルサでの騒乱を代わりに収めてくれて感謝している。少々行き違いはあったがな」
「それで通ると思っているのか。私たちで内々に済ませられるものでも無いんだぞ?」
「査察官か? それなら死んだよ」
 ヤノフは驚いた。別ルートで州の状況報告をするために派遣される連邦査察官。彼らはとうに脱出したものと思っていた。
「あんたのグループが結束が強いのも調べはついてる。それでも漏れが完全に無いはずが無いがな。だからあんた次第と言った」
「あなたの差し金か?」
「いや。…酒、少し飲まないか?」
「…いい」
「そうか。…まあ、どさくさ紛れには違いないんだが、止めはうちの者がやった。そいつは落城のどさくさに女を襲っている不埒な連中を倒したと思っている」
「女だって?」
「ああ、あんたの部下だ。ローザ・ニクラスブルグ」
 ヤノフは押し黙った。
「医者に診せたが手遅れでな、いくらか遺言を遺した。書き留めたのがこれだ」
 トールは紙片をヤノフに渡す。
「彼女が何者で、何をしようとしたかわかった。で、遺体は既に死んでいたとして返した。安心してくれ。内密に処理したから」
 それが偽造であるとの考えは、紙片の文面を見てすぐに消えた。ヤノフたちの間だけで通用する符丁が最初に書かれていた。

「…おまえは馬鹿か!」
 ヤノフの感情が弾けた。
「私情で動いた女の言うことを聞いただと? 敵のくせにか!」
「気に入らんだろうが、その通りだ」
「くそったれ!」
「すまんね」
「おまえじゃない! 命令だけしてうやむやにするジジイどもがだ。逆らい切れなかった私がだ」
「言っておくが、こちらとしちゃあ別に情にほだされたとかそういうわけじゃない。…つまらない人死には出すなってのが、家訓のようなものでね。おおっぴらに言わないのは馬鹿にされるから言わないんであって。そうだろ? 我が家ながら、あんまりな家訓だ。無茶言うなよってな。…だが性根に刻まれちまっててね。そういうところからの判断で、彼女の遺言に従いあんたを生かすのが、今後を考えても最も俺の意に沿う。そんだけのことだ」

 アレクセイ・ヤノフはグラスを手に取り、酒を一口含んで飲み込んだ。
「…やっぱりおまえもくそったれだ」
「ああ、わかっている」
 トールはボトルを手元に引き寄せ、ヤノフのグラスが空くのを待った。



 この月、ついにカロンが北辺伯軍に攻め掛かったとの報告が入る。
 カロン軍、騎馬28000・歩兵95000・砲25000。対し北辺伯軍、騎馬8600・歩兵78000・砲17000。
 北辺伯は善戦するも、戦力に勝るカロン軍に押し切られ野戦に敗北。アステリオンへ退く。

 トールは王都での一件がほぼ片付いたとの報告を受け、クリス並びレオに王都詰め部隊の北辺伯領近くへの移動を命じ、ユーロパ、カリスタはマルティンらに任せ、一足先にアンブローシア本国に向かった。



<王歴266年7月〜10月 北辺伯救援〜対カロン戦>
 7月、ヤノフ知事以下ノルド州関係者を解放。アルサ家などアンブローシア出自の者は継続して捕虜とし、当人の意思次第で登用するとした。その後ノルド州は従属志願し、これを受託。さらに臣従。これを受け、従属状態にあったアリオト伯も臣従させる。

※マップの端で他に接する勢力が無い場合、さんざん打ち倒して向こうから従属志願が為されなければ不戦同盟すら交わせないのだが、この場合はトラファルガ以外にアリオト伯がドゥベにてプロセルピナと領を接していたため交渉可能である。また、ゲームシステム上従属志願と表記したが、ノルド州は一応外国なので本来なら講和であろう。

 先行するトールに続き、アルサにいるトラファルガ家武将・客将を一斉に移動開始。
 北辺伯に臣従交渉を持ちかけるが受けてくれない。



 二度の会戦を経て、北辺伯軍はその戦力のうち半数、約4万を失った。
 一方カロン軍の損失は約3分の1、セネカはまだ8万の兵に囲まれていた。

 セネカ包囲中ではあるが、カロン軍の陣幕内は、かの北辺伯に連勝したことにより戦勝気分が浮かび始めていた。特にこの度の軍団長ホアキン・デル・ポルタの周囲に著しい。
 参謀として随伴したイヴァン・エルナントらは何度も諫言するが、徐々にその効果は薄れつつあった。エルナントは焦りつつある。トラファルガ軍が王都から移動しつつあるのを察知していたからだが、軍団長とその取り巻きは、間もなく到着するであろう増援軍の存在と、装備の優勢から、その深刻さを認めようとしなかった。

 どうやら北辺伯とやらは他者の力を借りるつもりが無い様ではないか? ならば何が来ようとも各個撃破出来ようものぞ。

(…それが敵の手かもしれないという発想は無いのか?)
 エルナントは見切る段階に来たのを確信していた。彼の元には、一枚岩でない帝国中央それぞれの陣営からいささか矛盾する命令が届いていた。

 ポルタが惨敗した場合は、増援は即時中止される。また、たとえそうなってもポルタを間違いなく帝都に帰還させよ。

 大雑把にまとめればこうだ。即物的に言い換えれば、辺縁の平民出であるエルナント以下の将兵は、ポルタを守るためにいかなる犠牲を省みるな、ということだった。派閥同士の綱引きの結果が貴族以外には迷惑極まりないものになっている。近年目立ちつつある帝国の綻びだと、エルナントは認識していた。
 さらに帝都の仲間からは、敗北しようともポルタの賞罰は問われないかもしれない、とまで伝わっている。エルナントらにとって不幸なことに、ポルタは帝国で最も大きく最も居丈高な派閥の出身だった。

 自分が死んでも家族に十分な補償があるように手は打っておいたが、果たして履行されるのだろうか? 彼は表には出さないが、横の能天気な連中を見ているとそんな疑念まで沸いてきてしまう。
 だが、いずれにせよ職務は全うせねばならなかった。それだけは確かだ。



 北辺伯アラルド・トーレスは、残存戦力をカロン南縁部ノースコルトに集結させていた。
 セネカに攻め込んだカロン軍を迎え撃つこと一度、セネカ攻城中のそれに突撃し一度、合わせて二度の会戦で、約5千の兵を死なせ、その三倍の兵を傷つけ、それらを合わせた数の兵が脱落した。
 それでも残る4万の兵の士気は充分高かったが、今のカロン軍に拮抗できる戦力としての北辺伯軍は瓦解した。しかもカロン南縁部内陸に追い込まれた形になっている。
 8月末、北辺伯はある決断を配下の将たちに告げた。
「トラファルガの臣従要求を受ける」

 トラファルガが軍をまとめるまでカロンを引き受ける。それは北辺伯の将の統一意思となっていたため異論は無かった。



 9月北辺伯臣従
 アマルテア家従属、リシテア家と同盟

※王家とともに従属してから以降ずっと臣従要求を出していたが、北辺伯は元の半分程度の戦力となってやっと臣従してくれた。



 イヴァン・エルナントの懸念は深まっていた。これまで北辺伯側の間者を、燻り出し次第処分していたのだが、今度は自分の間者の消息が掴めなくなって来ていた。明らかに異常事態が始まっている。手持ちの情報が急に減ってしまった。ポルタ一派の情報収集力と処理力には期待できないというのに。
 エルナントは賭けを試みた。
 セネカを陥落させても、荒れていて拠点として用いるのは心もとない。よって一時スヴェッソンに退いてトラファルガに備えるか、あるいは斥候部隊による北辺伯領侵入並びに強行偵察を敢行すべしと提議した。

 いずれも却下。

 以前より弱体化したとはいえ北辺伯軍が近くにいる。なにより集結しているというトラファルガに動きが無い。セネカ奪還も時間の問題だというに何事か。

 エルナントは悪罵を浴びせられた上、一時謹慎を命じられた。
 もう手をこまねいている場合ではなかった。イヴァン・エルナントは出来うる限りの段取りを整えることにした。悔しいが、ポルタらを無事逃がすための段取りだ。


 その夜、知らぬ間に出陣の準備が為されていることに気づき、イヴァン・エルナントは飛び起きた。
 仮説宿舎の部屋を出、近場の兵を掴まえ訊く。
「何があった?」
「北辺伯の夜襲を迎え撃つとか…」
 陣地の端まで走り、見晴台から北西を見遣る。ノースコルトの方向に遠く、連なる行軍の灯火らしきものが見える。
 エルナントは本営に駆けた。あからさま過ぎる、罠に決まっている。

「閣下! 軍団長閣下!」
 戦装束に着替えたポルタらが、悠然と出立しようとするところに間に合った。
「どうした? エルナント」
 取り巻きに抑えられたエルナントに、ポルタは言った。見た目だけなら優雅で落ち着いた物腰だ。
「閣下、なぜ出撃なされるのですか?」
「敵の斥候を捕らえたのだよ。そこから追い詰められた北辺伯が夜目に紛れて逃げるという情報を得た。それを追い立ててやろうということだ」
「罠です」
 ポルタの目に嘲りが浮かんだ。
「君は優秀だが、弱気はいかんなあ。安心しろ、まともにやり合う気は無い。適当に追い立て逃がしてやるさ。そもそも君は敵を買い被ってやせんか? 自分から敵地に嵌りに来たような奴だぞ。北辺とやらは」
「しかし閣下、それは余計なことです」
「何がだ? 逃げる敵をそのまま見逃せと? 戦意を失わせ兵力を削ぐよい機会ではないか。それにだ、私は夜戦の経験が無いものでね。経験を積むに丁度よいではないか」
 エルナントは罵倒の言葉を必死で飲み込んだ。
「閣下、警告は致しました。宜しいですね」
「くどい。…ああ、君とマドリッドの隊を残すことにしよう。セネカはもう落ちる。私が戻ったときには落としておけ。謹慎は解く」
「…畏まりました」
「それから君が恐れるトラファルガとやらな、未だアシメクから動かんそうだ」
 ポルタ率いるカロン軍7万は、北辺伯の横腹を突くよう移動を開始した。


 翌早朝まだ薄暗い中、カロン軍の待ち伏せに遭った北辺伯軍は戦わず反転し、ノースコルトに逃げ始めた。カロン軍は余裕を持ってそれを追い、狩りを楽しむかのごとく北辺伯の殿軍を蹴散らしていった。
 北辺伯軍はノースコルトに篭り、カロン軍はそれを包囲する。


 エルナントの元に、数が少なくなったとはいえ、間者からアシメクのトラファルガ軍の様子が伝わる。
 変化なし。
 カタルーニャにも軍勢は見当たらず。
 だが安心してはいけないとエルナントの勘は告げていた。何か見落としがあるはずだ。それは何か?
 情報が足りないのだ。…足らない? …そう足らなくなった。間者を失ったからだ。
 …待て。…大事なのは入った情報じゃない。入らなくなった情報の方ではないか?
 彼らがカバーしていたのはどこだった?
 アンブローシア王都方面、ジェイナス半島方面、それからユノー島の海軍…

 海軍? あれは中立を通しているはずだ。王家がああなった以上忠誠を誓う家など、いまやありは…

「しまったっ!」
 エルナントは走った。セネカ攻城の準備を指揮していたマドリッド前指令の元へ駆け込む。
「マドリッド将軍、海だ! 奴らは海から来る」


 トラファルガ軍17万が上陸したとの報告を受け、ノースコルトを包囲していたカロン軍は、慌ててセネカへと転進した。


 トール率いるトラファルガ軍はセネカに近いアステリオン、ベレッタ市に集結。
 攻城中のカロン軍を攻撃、スヴェッソンへ撃退する。



 10月アマルテア家臣従リシテア、その傘下シノーベ両家を従属

 スヴェッソンへ侵攻。カロン軍残存部隊が迎撃。兵力はトラファルガが倍するが、砲は向こうが1万ほど上回る。

 間合いを測りながらトラファルガは両翼から攻め掛け、離脱する。
 流石にカロンの弾幕は厚い。両翼を広げたトラファルガに対し、スヴェッソン市を背に紡錘形の陣取りをするカロン。砲撃で防御体制をとる形に特化している。
 単純戦力比はトラファルガ10に対しカロン6。但しトラファルガには控え部隊がほぼ同数いる。これを投入すれば押し切るだけなら難しくはないだろう。

 小戦闘を三度繰り返し、カロンの継戦力を推し量って小休止に入る。トールは陣形図を見て呟いた。
「流石に砲列の厚さには参るな」
 カリスタ侯から借りた猛将、ジーメオン・オストヴァルトに訊く。
「貴公が突撃すればどの程度で崩せる?」
「…ふむ。まずやはり、密集隊形は愚策ですな。散開機動で援護を頂ければ二割から二割五分の損失で崩すことは出来ます」
「多いな」
「戦況からすると多いですな。今すぐ、どうしても、といった場合の話です」

「どこが手強そうだと感じた?」
 アダーラの傭兵隊長、シュテファン・ルサルカに訊く。
「紡錘のてっぺん、ここの二群が錘の両辺の隊列をうまく御しております。これが最も手強く、かつ敵陣の肝でありましょう」
 クリスが補足する。
「北辺伯によると、マドリッド南方軍前司令とエルナント参謀の部隊とのこと」
「参謀が部隊指揮か?」
「参謀として参戦はしたものの、元々用兵家として秀でた者とか」
「だったら余計にだ、幕僚として重宝してやるべきじゃないのか?」
「そうとも言えますが…」
 クリスは唇の端を軽く上に曲げた。
「上に信頼され切ってないか、紡錘で守られている本陣、こいつを信頼してないか。ということかもしれんな」
「然様で」
「…出来ればもっと詳しい敵陣配置が知りたい。はは…空の上から見ることが出来りゃ最高なんだが…」
「いくらなんでも、それは無理というものでしょう」
 その場の皆が笑いかけたとき、レオフウィンが口を開いた。
「…あの、トール様?」
「なんだ、レオ」
「先ほど、妙な物を受け取りまして…いえ、受け取ったと言うより、いつの間にかあったと言いますか」
「見せてみろ」

 レオフウィンが手渡した紙筒を机上に広げる。
「…なんだこりゃ?」
 トールはそれだけ言うと黙る。
 トラファルガの陣からカロンの陣まで至る細密画のような、いやもっと鮮明な画だった。ほぼ真上から見たような風情だ。それぞれの隊列がはっきりわかる。隅にスヴェッソン市らしき街並も見られる。
「何かの冗談ですか? これは」
 クリスも思わずそう漏らす。
「冗談にしては、こちらの陣形がそのままじゃないか?」
 画の隅から隅へと視線を走らしていると、トールの目にある紋章が止まった。

 <白い、角のある馬>

(…彼女か…?)
 トールは落ち着いて頭を働かせると、索敵役のオルランド・アルマーズ、バルタザル・メイヨに訊く。
「とりあえず、こいつの真偽は置いておいてだ。もし敵の配置がこれなら、貴公らはどう思う?」
「一言で言うと、本陣は守られ過ぎと言えましょう」アルマーズが答える。
「及び腰、と言うか、戦力の無駄ですな。本隊による前線の補完さえ考えられていない」メイヨが続ける。
「例えば我らがこれを力押しで崩そうとするならば…」
「とにかく本陣を逃がすための防御陣と見えます」
 二人の意見は一致した。
「どうすれば確実にそうだとわかる?」
『ここは陽動です』
 トールは陣形図と画をゆっくり交互に見回し、一呼吸置いて命じた。
「本隊6万、左翼オストヴァルト隊2万、右翼ルサルカ隊2万とし、両翼は牽制しながら大きく敵陣を回り込め。挑発には乗るな。…本隊は間合いを詰めながら前進、但し敵の射程に深く入らない。射程外からでいい、敵本陣に向かって砲撃しろ。当てる必要は無い。砲弾が届けば良い。…敵陣形がそれで動くようなら、隙を見つけ次第両翼は突撃せよ。本隊も散開し突撃、マドリッド・エルナント隊にはなるべく関わるな。動かないなら速やかに後退。…以上作戦指令書をまとめ、全隊に通達!」
 将たちはそれぞれの持ち場に散る。準備が整い次第出撃だ。

「さて、トール様」
 クリスが小声で訊く。
「あの画図面はどう説明されますか?」
 彼も父イェルハルドより、例の紋章について知らされている。
「魔女の贈り物ってのはまずかろう。天使が分けてくれたとでも言うか?」
「またまたご冗談を」
「ああいった画を描く手法ってのがあったはずだ。王都に戻ったら調べておいてくれ」
「了解しました」



 トラファルガの隊列は三方に分かれた。本隊が徐々に近づいてくる。両翼は自陣を回りこもうとしている。左右で小競り合いが何度か起こっていた。
 イヴァン・エルナントは自陣両辺をやや拡げ、敵両翼に備えさせる。本陣から命令が届くが無視する。先の戦闘が敵の小手調べと理解できない指揮官など邪魔でしかない。両辺の指揮系は自分とマドリッド前指令周りにまとめるようにしていた。将兵の多くが彼と同じ辺縁部出身者だったから出来たことだ。
 エルナントは時機を推し量る。敵本隊は出来うる限り牽きつけたい。
(まだだ。…まだ待て)

 敵本隊から砲声が上がった。
 エルナントは不意を突かれる。まさか、敵の砲の射程を読み間違っていただと?
 だがすぐにそうではないとわかる。敵の砲弾は自陣の前ではなく、はるか上を飛び去っていった。
(無駄なことを…)
 あれでは威嚇にしかならない。エルナントは敵の砲撃の間合いを見極め、隊の前進指示をしようとした。
 そこへ最悪の報告がもたらされる。
「本陣退却!!」

「馬鹿な!」
 敵の目論見に気づかなかった自分を呪った。そうか、敵は初めから本陣を狙ったのか。だから威嚇でよかったのだ…。
(だが、逃げるか? 普通…)
 何のための布陣だと思っているのか? エルナントは馬鹿貴族を呪った。
「本陣へ通達! 防御陣から離れすぎないよう伝えろ! 両辺へ通達! 敵の攻撃に備えろ!」
 通達兵の馬が駆け出す。が、効果は薄いだろうと悟った。ポルタの旗が見える。逃げ方と言うものだってあろうに。それほど無様な逃げ方だ。これでは士気も何もあるか。
「マドリッド隊へ通達、我が隊とともに両辺の後退のカバーに回るようにと!」
 ここは両辺の隊列を維持し後退させた方がいい。エルナントはそう判断した。
 真っ先に逃げる指揮官に義理などあるものか。

 自陣が緩んだのを見越し、トラファルガの両翼が突撃を開始したと報告が入る。エルナントは引き続き防御体制を維持しながらのスヴェッソンへの後退を指示し、自らはマドリッド隊とともにトラファルガ本隊を迎え撃つ位置取りをする。
 6万の敵本隊は散開機動をとり、7千の両隊ではなかなか動きを抑えられない。もう少し牽きつけよう、エルナントはそう判断し砲撃を一旦止めた。

「くそっ!!」
 エルナントは叫んだ。トラファルガ本隊の散開隊形が左右に分かれる。間合いを取ったままエルナントらをやり過ごそうというのだ。
 元より太刀打ちできる戦力じゃない。だが一矢報いる機会さえ与えるつもりは無いのか。エルナントは指揮棒を地面に叩き付けた。
 自部隊の統制がしばし滞る。エルナントは次の一手を考える。考える。
(突撃か…)
 それもいい、と考え腕を振り上げた。
 それを力一杯押さえられる。エルナントは掴まれた腕の先を見た。ペテロパウロ・マドリッド前司令がいた。
「後退だ」
 エルナントは気の抜けた顔をマドリッドに向ける。
「無駄死にするなら一人でやれ。後退だ」


 カロン第一次南征軍ポルタ本隊は、スヴェッソン市に篭ることもせず、そのまま通り過ぎ撤退した。これを守るが如く留まった部隊は、篭城戦の末降伏。
 第一次南征軍の大半がトラファルガの捕虜となった。
 その中にはイヴァン・エルナントとマドリッド前指令がいた。



 戦闘に片が付いてから十日後、軟禁状態のイヴァン・エルナントに面会者があった。
 部屋に入ってきたのは三人。ペテロパウロ・マドリッドを先頭にし、威厳ありげな初老の男と、それより二周りほど若く見えるやや軽薄そうな男。
 まずマドリッドがエルナントに話し掛ける。
「戦後交渉はほぼまとまった。二日後には我々は解放され、迎えに来た特使とともに帰路につけるよ」
「…そうですか」
 前指令の後ろの二人については、あえて訊かなかった。マドリッドはエルナントが気にしているだろうことを先に告げる。
「ホアキン・デル・ポルタはグラナダまで来ていた第二陣まで辿り着いたが、自分らだけ逃げてきたのを誤魔化し切れなかったそうだ。それなりの処罰は下るようだ。…あまりな負けっぷりに、第二陣はトラファルガを暫定アンブローシア政権とし、これと講和し帰還。交渉の特使にはダルシア総督が来た」
 グラナダのフェリペ・ダルシア総督は地方非戦派の実力者、帝国内ではマドリッドと同じ派閥の者だった。
「…では、終わりですね」
 マドリッドは肯く。
「そうだ。君の身柄もポルタから外され、我々が預かることになる」
「…そんなことまでここで話していいんですか? 後ろのお二人は帝国の方ではないでしょう」
「交渉の席で出た話だ。問題無い」
「……そうですか。では…お二人をご紹介くださいませんかね? いや、私が当てましょうか。…そちらが北辺伯ですね。アラルド・トーレス殿。もうお一人はデーニッシュ侯…」
「いや違う」
 北辺伯が初めて口を開いた。
「トラファルガ当主、トール・グリペン様だ」
 イヴァン・エルナントはさして興味なさそうに、だが深く二度、首を縦に振った。



<幕間>
 セネカの塔楼より、引き上げていくカロンの兵列が見えている。
 武装解除された5万余りの人々が、そこからだとスヴェッソン市まで続く影のように見える。

 カロン南縁部はしばらく北辺伯軍が駐留し、落ち着き次第カロンに返還されることになった。ベレッタ自由市のみ、アンブローシアの衛星都市として所属が替わる。
 北辺伯アラルド・トーレスは、兵列の中にイヴァン・エルナントとその部下たちの姿を見つけ、隣に立つトールにその場所を示した。

「あんなに若い者とは思いませんでしたよ」
 北辺伯が言った。
「それに口さが無い奴だ」
 トールが応えた。
「表には出せない話が出ましたからな」
「あの野郎、散々俺たちを罵って行きやがった」
「あなたは偽善者だそうですな」
「伯は無駄な犠牲を払ったと言われたな」
 二人は顔を見合わせ苦笑する。
「それは…」北辺伯はわずかだが黙り、小さく息を吐いた。
「あながち間違いじゃありません。相手の指揮官があれほどだと知っていれば、また別のやり方がありました。5千もの兵たちを死なせたのは。わしの失敗です」
「だが、伯が本気を出してくれたから、向こうの指揮官は俺たちまで侮ってくれた。結果としては犠牲は少なくて済んだ」
「有り難き御言葉なれど、やはり失敗は失敗です。守戦を是とする者が、勝ち切れぬとわかっていて戦ったのですからな」
「…そうか」


「シラー伯からエルマーを通して送って頂いたあなたの戦跡を見ました」
「…ああ…」
「まだ戦力が小さな段階や、アルワイドを相手にしていた頃を除き、あなたは圧倒的であるにも拘らず、なるべく相手を力でねじ伏せることはなさらずに来ましたな」
「大規模野戦は少なかったかもな。…そう見えるのかね?」
「はい。あなたは守戦のやり方に徹しておられる」
「あいつにも言われたことだな。そこが偽善だと」
 トールは遠くの兵列を見る。
「俺についてもあいつが言ったことは間違いじゃない。潰せるのならさっさと敵を潰し、邪魔者は抹殺した方が早い。時間が掛かることで起こる不測の事態だってある。…その通りだ」
「王都であなたが指示された件に関わりがあるのでしょうな」
「まあ、それも大きいかな」
「で、どうだったのですか?」
「海軍には報せたことだからな…伯が今知っても問題は無いか」

 トールは視線を北辺伯に向ける。
「フォビア王の身体からは、遅延性の薬物の痕跡が見つかった。フィオレンツァ様からはもう少し効果の早い物が…つまり」
「暗殺、でしたか…」北辺伯は目を瞑る。
「畏れ多いということで看過されていたらそのままだったかもしれない。そこは俺は本家筋だからな…それで、王と王太后はわりと早くにわかったものの、遡って調べていてそれに手間が掛かっている。場合によっては、いつかの流行り病の際、相次いで亡くなったお歴々だって実のところは怪しい」
「…想像以上に大きなことでしたか」
「舅のカリスタ侯には刺客が来たそうだ。伯はどうだった?」
「いえ」
「カロンの相手をさせることを見越してか、無事だということが怪しいと、後で言い掛かりでも付けるつもりだったか。…これは舅が言っていたんだけどね」
 北辺伯はトールの前に跪き、頭を垂れた。
「貴方様は、王の無念を晴らして下さいましたな…」
「頭を上げてくれ。こうしてあたかも事の首謀者がわかったような話をしているが、実は証拠は無い。だから伯が俺に頭を下げることは無い」
 だが北辺伯は姿勢を戻さない。トールは伯の前に膝をつき、話を続けた。
「シラー伯に、近衛の元々の役割を演じてもらった。かなりの数の人間が関わっている。だが、焦点になる人物が絶妙にいなくなっていた。そのおかげで自白させた情報が微妙なところでまとまらない。状況から推測は出来るが、間違いの無い証拠に繋がらない。…シラー伯は俺の師匠であるが、その人の寿命を削らせているやもと思ってしまうくらい、何があったのか白日の下に晒すのは難しい。…ここまでになったのは、膨大な情報をまとめ評価する者がいなかったからだ。だから良い様に撹乱され分断され翻弄され、国中が共同謀議に巻き込まれた。…そういう意味では、『俺たち』の負けだ。…なあ、せめて足を崩してくれないか?」
 北辺伯が姿勢を崩さないため、トールは半ば無理やりに床に座らせ、自らも腰を下ろした。
「話を戻そうか。…この十年ほどの内戦は、国中で殺し合いが起こるよう仕向けた連中がいる謀議だ。それさえなければまだこの国はしばらく保ったろう。…伯が言う守戦に徹したというのは、そいつらの思い通りになるかっていう俺の意思だ」


 ひとしきり間を置いて、トールは切り出した。
「一つ、わからないことがあった」
 北辺伯はトールを見遣る。
「首謀者と思しき連中の多くは、己の欲を満たそうとしたように見える。だが、一人だけよくわからない奴がいた。何年か前だが、そいつはもしかして、国を混乱に陥れたかっただけかも知れないという話さえ出た」
「…デミトリス・アルワイド」
「そうだ」
 トールは塔楼の降り口に声を掛ける。
「エーリック! レオ! 人払いは大丈夫だな?」
 返事が反響して返ってくる。
「大丈夫だ!」「はい! 問題ありません!」
「わかっているなっ! ここの話がもしお前らの耳に入っても、お前らは聞いてない」
「了解!」「はい!」
 北辺伯に向き直り、小声で言う。
「まあ、あいつらにもいずれ教えるつもりだから、聞こえたら聞こえたで問題ないんだけどね」
「…では、聞かせて頂きましょう」
「うむ。アルサからこちらに向かう際、奴に直接会ってきた」
「まだ生きておりましたか」
「ああ、アンゴラブの地下牢に監禁している」




 ブローギューラの中央に位置するメーラレン湖は、世界で一、二を争う水の清さで知られる。アンゴラブ離宮はその湖畔に聳える岩塊をくり抜き築かれた城砦を改装したものだ。
 トールが降りて来た地下牢は、まだ水辺より高い場所にあった。北側からではあるが、十分に光が入っており、その時間ではまだ灯りは必要ではなかった。

 五つほど鍵付きの扉を越えて着いた先は、牢と呼ぶには豪奢なものだった。
 かつて王家で「お隠れ」になった者を収めるために使われていたという。とはいえ、今は作りはともかく、中は牢と呼んでも差し支えは無いように見える。
 中にいる者は棄てられた王族ではないため、最低限の調度しか無いからだ。


 デミトリス・アルワイドは食事の最中だった。彼がかつて口にしていたものより、はるかに粗末な料理だったと思われるが、彼は優雅にそれを味わっているようだった。

 安ワインの入ったグラスを傾けたとき、デミトリスはトールに気づいた。
 そそくさとグラスを下ろし、トールの方を向き立ち上がった。
「これはこれは新王陛下。このようなところによく御出でになられました」
 ゆっくりと敬礼する。

「王になると決まってはいない」
 トールはそれだけ言うと、デミトリスの向かいの椅子に座った。同行したクリスとレオが、室内を窺いつつ扉を閉じる。

 畏まったままのデミトリスを座らせようとしたが、直立を崩さない。そのままで、トールは切り出した。
「率直に訊こう。貴殿は何がしたかったのだ?」
「御質問の意味がわかりませぬ」
「はっきり言えばいいのか? 貴殿は王殺しだ。それで、何がしたかったのだ?」

 デミトリスの口だけが笑った。同時にトールへ表する敬意を必要としなくなる。彼は摂政の物腰を忘れたかのように椅子に座る。
「それで、何が訊きたいのかね?」

 トールはデミトリスの態度の変化を気に掛けるでもなく、淡々と話を続ける。
「貴殿は直接手を下したわけではないが、フォビア王を初め幾人もの重要人物を死に至らしめた。他にも様々な手で国の屋台骨と呼ばれる部分に傷を付けた。だが、国を簒奪するでもない、貴殿の妹と甥を助けるでもない。だから、何をしたいのだと訊く」
「馬鹿げた質問だがいいか?」
「どうぞ」
「証拠はあるのか? 私がそのような大それたこと、おそらくまだおまえは隠しているだろう他のこと、それら全てに私が関わっているだと?」
「全部とは言わん。違うのか?」
「違わない。私の仕業だ」
 デミトリスはにっこりと笑った。

「別に隠すつもりはないんだよ、トール君。証拠といったって、状況証拠だけでも私は死を賜るに十分な所業をしたのだしね」
 デミトリスはトールの顔色を伺っている。
「でも、私に直接繋がる物的証拠や証人は無いのだろう? いや、答えなくてもいいよ。わかっているから」
「話を戻そうか? デミトリス」
 何の変化も無いと悟ると、デミトリスは真顔に戻った。
「元の話? …ああ、そうか。だが君に理解できるかなあ?」
「いいから話してくれ」

 デミトリスは小さく鼻を鳴らし、しばし考え込んだ。テーブルの上に並んだ物を眺める。そして、ふと思いついたように食器を手に取った。
「トール君、これはなんだね?」
「フォークとナイフだ」
「その通り。ではこれは?」
「スプーンだ」
「そう、よくおわかりだ。さて、ここからが難しくなる。…では、これらはいつからあったのだろうね?」
「昔からあるだろう?」
「だめだよ、トール君。それじゃあ落第だ。…じゃあ質問を変えよう。これらは何のためにあるのかね?」
「食事を摂るためだ」
「そうだが、ちょっと足りないね。正解は…便利に食事を摂るためだ。これらがないと不便じゃないか」
「当たり前だ」
「そうだね、当たり前だからみんな気づいてくれないんだ。…じゃあ、こんなものが無かった、その前はどうしていたんだろう?」
「手を使っていたか、もっと不便ではあるが別の道具があったんだろう」
 デミトリスは手を叩いて喜んだ。思い通りの答えが出て嬉しいようだ。
「君は頭が良いねえ。そうだ、道具っていうのはそういう物だ。年月を重ね少しづつ洗練されたり、いきなり便利なものが出来てそれまでのものが廃れたりする。そうそう、その通りだ」
 ここで、初老の男の顔がいたずら小僧のものに替わる。
「でもねえ…無いんだ」
「なんだと?」
「このナイフとか、スプーンとか、フォークとか、他にも例えば缶詰と缶切とか、その前にあるはずの物がねぇ、無いんだよ」
 今度はいきなり哀しそうな顔になる。
「僕はねえ、摂政とか政治とかね、そんなものやりたくなかったんだ。アルワイドの家は落ちぶれたままでよかったんだよ。そうしたら大学で好きなことを続けられたんだ」
「貴殿が留学していたとかいう西方の大学のことか?」
「そうだよ。…いやあ流石によく調べてきてるねえ。僕はね、そこで考古学という新しい学問をしていたんだ。昔のことを調べるのをね、もっと科学的に行うというやつさ。…ああ、科学。科学ってわかるよね?」
「大体はね」
「それはよかった。僕はそこで色々な記録や文献や調査に触れたんだ。僕ほど沢山の分野に手を伸ばす者はいないって教授連中に褒められたよ。ああ、続けたかったなあ」
「それでナイフの前が無いと?」
「そうそう、そうなんだよ。一番古い記録にね、みんないきなり出てくるんだ。おかしいだろ? 例えば缶詰の記録がある。そしたら今のものに近い使い易い缶切がすぐあるんだ。試行錯誤っていうのが無いんだ。本当におかしいだろ?」
「そうか? そんなものは記録に拠るんじゃないのか?」
 デミトリスの顔にわずかだが、嘲りが浮かんだ。
「そう、みんなそう言うんだ。現に記録はそう古くまであるわけじゃない。君の故郷、ハイランディアが出来た七百年前のあの大災害、あれは世界的だったからねえ。それを境に、多くの記録が失われた。だから教授だって、それ以前にあったことなのではと、僕の言うように分野を広げず、自分の研究分野に掛かり切りだ。なんて馬鹿なんだろうと思ったね。みんなが知っていることを持ち寄れば、より理解が深まるというのにそれをしないなんて。…でも、ある国の留学生が僕に賛同してくれて、教えてくれたんだよ。あるところにはあるって」
「何がだ?」
「記録だ。大災害以前の記録。その国の、奥深くに保管されていたより詳細な記録。…それを信用するなら…」
 トールがどんな顔をするのか、デミトリスは期待に胸躍らせた。
「この世界は、およそ千八百年前それ以前には存在しないんだ」


「…驚かないのか?」
 トールが特に反応を見せないことに、少々落胆したようだ。
「突拍子も無さ過ぎる。大体、教会が言うようにこの世界が神により創りたもうたのなら、別に問題は無い」
「…問題は無い。問題は無いと? では、あまねく世界中の人間に、ほぼ言葉が通じているのは何故だ?」
「そう創られたからだろ?」
 デミトリスは瞼を閉じ首の骨を鳴らした。彼はそこで、ある手札を切ることに決めた。
「…ほう? それでは訊こう。トラファルガ家の記録が七百年前からしか無いのは何故だ?」
「なんのことだ?」
「しらばっくれるんじゃないっ!」
 初めて、デミトリスは声を荒げた。
「トール・グリペン・トラファルガ、…私は知っているぞ。お前たちが隠している物を知っているのだ。フライエルの山々を消し飛ばせた、強大な魔法の力だ。山が消し飛んだ後、突如お前らは現れたのだ。…お前たちは馬鹿だ。愚かな一族だ。そんな物を持っているなら、それを初めから使えばいいではないか。苦も無くこんな国どころか、世界さえ手に出来たかも知れないのだぞ」
 トールは表情も変えない。それを見て、歯噛みする。
「どこでどう知ったのか、そんなこと知ったことじゃないが…アルワイド卿、そいつを一言で表す言葉を知らないのか? それは、『妄想』と言うのだ」
 これで、摂政の中の糸が何本か切れたようだった。
「妄想だと、馬鹿にするな。貴様らは人並み以上の才能を持ちながら欲も見せん、でしゃばりもせん、小さな領地に閉じこもって領民に慕われるなど、誰が信用する! おれは信じんぞ」
 そういえば、とトールは思い返した。父フレドリクとデミトリスはどこかで面識があったはず。理解できない相手にはスカしたととられる態度を、この男にもとったのだろうか。
「お前らは何かを隠してる、違いないんだ。おれはだまされんぞ。お前らはそういうスカした素振りで常に人を馬鹿にしてきたんだ。さも余裕有り気で、悔しくてならん。お前らはいつでも国を奪えるから…」
 トールがいつまでも表情さえ変えないのを見ると、デミトリスは気が抜けたように笑った。大きくため息を吐き、平静を取り戻したように見えた。

「まあいい。どうでもいい。…では初めの質問に答えよう」
 まるで演じるかのような酷薄な笑みを浮かべ、摂政は言った。
「つまりだ。…この世界も我々も、突如何者かに創られた。不自然にね。だから『ここ』は本物ではないと思わんかね?」
「で、何が言いたい?」
「いやあ、こういう考え方は出来ないかね? トール・グリペン。…つまりだよ、本物でなければ何をしても良いんじゃないかね?」
「それだけのことか?」
「左様、それだけのことだ」

 やはりトールの反応が無いことに、摂政は小さく舌打ちした。
「僕を処罰するならしてくれ。処刑でも毒をあおらせるでも君の自由だ」
「いやだね」
 トールが初めて表情を変えた。不敵に笑う。
「貴殿のことだ、色々と置き土産を残しているだろう。貴殿のような者でも慕っている連中はいる。担いでいる奴はいる。貴殿を考え無しに殺して、忘れた頃に殉死者として仰ぐ連中の反乱が起こったりとかな。仕込んでいるんだろう?」
「さあ、どうだろうね」
「ズーベンの兵を相当無茶に使ったな、それも布石か?」
「知らんね」
 デミトリスの笑みは、今度は演技ではない。
「貴殿に唯一賛同するところがある。さっき、みんなが知っていることを持ち寄れば、より理解が深まると言ったな。同感だ。そういう奴がいたら、貴殿の企みのいくつかは潰せたはずだ。だから今後はそのようにし、置き土産を潰してやる」
「いいから、やってみろよ」
 吹き出すのを堪えるような顔をトールに見せる。

 『会談』はこれで終わりだ。
 デミトリス・アルワイドは去り際のトール・グリペンへの捨て台詞を用意したが、使う間をトールに取られた。
「摂政、最後に一言言っておく」

「てめえを基準にもの考えてんじゃねえよ、馬鹿」

 デミトリスがそれを聞いてどう思ったかはわからない。
 ただ刑務兵はその夜、大きな笑い声と、壁を叩く音を聞いたと報告している。




「まだ、己の欲という理由の方がマシではないか…」
 北辺伯の最初の所感はこうだった。
「奴のもある意味欲と言えなくもないが、そうだな」
「奴が国中になんらかの種を撒いたのは確かですか?」
「小者は既に、王都で何人か捕らえた。だが全容はわからん。わかり易い形の種とも限らんし、国外という目もある」
「奴の話に出た『ある国』ですな」
「そう。多分、カロンだ」
「何故そう考えなされるか?」
「北大陸で歴史の古い地域は二つある。プレセペ帝国のあった西方諸国と、カロンだ。そして、親父に聞いたことがある。カロンには、お偉いさん連中の上にまだある。『奥の院』と言うらしい」
 北辺伯は、はっと何かを思い出す。
「エルナントが言っていた、アンブローシアを決して諦めない勢力ですか」
「そうかも知れん。気の長い連中だ」
「厄介ですな」
「しかし北辺伯、あなたもよくよく現実主義者だな」
「どうかしましたか?」
「いや、まず質問が来るのかと考えた。ほら、色々辻褄が合わないだろう?」
「デミトリスの言っていた話ですか?」
「ああ」
「話は話、それだけのことです」
「デミトリスの置き土産があるのは信じ、そっちはどうでもいいのか?」
「信じる信じない以前に、わからんものはわからんのです」
 トールは頭を掻きながら何度か頷いた。
「やはり、伯は信用できる。よろしいか、これは秘事中の秘事だ。他言無用だ」
「はい」
「トラファルガが七百年前に現れたと言う話は、本当だ」



 トールが去った後のデミトリスについて、少しばかり述べる。
 これはトールらの全く知らない話である。

 笑いが収まったデミトリスは、椅子に座り息を整えていた。思い残すことがなくなったような、晴れやかな気分だった。高みの見物は出来ないだろうが、いい。
 生かされるなら、それなりに有意義にも出来ようと考えていた。

 それは唐突に過ぎた。
<まったく…なに考えていたかと思えば、所詮頭の良い馬鹿か。迷惑なのよねえ、あんたみたいなの>
「…誰だ?」
<一言で言えばチンケな犯罪者。世界は自分中心に回っていると考えてる奴の典型>
「だから、誰だ!?」
 『声』は彼には応えない。
<真面目に何かに打ち込めばひとかどの人物だったかもしれないのに、もったいない。でも肝心なところで流されちゃうのよね、こういう人。それを人のせいにするし>
「ふざけるな! 応えろ!」
 『声』は聞こえなくなった。デミトリスは頭を大きく振った。軽く頬を叩いた。夢ではないようだった。

 椅子に座り直したとき、それは起こった。
 デミトリスの視界にあるものが、突然入れ替わった。

 気がついたとき、椅子に座ったままなのに気づいた。
 デミトリスは呆けたまま立ち上がり、『声』が聞こえたと思った壁に向かった。
 やっと口を開く。
「おい、僕に何を見せたんだ?」
 応えは無い。
 壁を叩く。
「おい、僕に見せたのはなんなんだ? 教えてくれ!」
 さらに叩く。もっと叩く。
「おしえてくれっ! 僕が見たのはなんなんだよ! あれは何だ、頼むから教えてくれよ…たのむよ…」

 壁をいくら叩こうとも、応えるものはなかった。



<王歴266年11月〜267年8月 アンブローシア平定戦>
 連合王国の半分強を傘下に収めたトラファルガ家は、王都トゥバンに傘下諸侯からの人材を集め、政治体制を整えつつある。
 その際、旧来の組織に変更を加える。モデルとしたのは二十年近く前頓挫した改革案だ。それに保守派諸侯の反発を呼んだ部分への調整をする。これを指揮するのは、マルティン・ケア=サダルメリクを首班とする少数選抜の協議班である。
 また例えば、シラー伯歴代がその任に就いていた近衛の王都警備隊への移行など、着手出来る部分から国の組織の再構築を始めている。警備隊が定着すればそれを全国組織の雛形とするよう手回しも進める。
 まだ全国を掌握したわけでもないのに、トールは先へ先へ手を回すように諸事の決済をする。時期尚早との声は皆無ではないが、内戦で荒れた状況がこれを後押しした。
 件の改革案は元々、諸侯連合体と通商国家というそれぞれの国の形に、修復不能な齟齬が現れ始め、これの修復を図ったものだった。トールらはそれをもう少し進め、中央集権の立憲君主国家を目指そうとしていた。小国でこれに成功した国があると知ると、特使を派遣し協力を求めた。
 トールだけは最終的に、統治を君主から政府へと移すつもりだが、これはまだ胸の中に置いていた。また政体に意識的に隙間を残している。まだ傘下となっていない諸侯に、席はあると示すためだ。


 現在戦闘が続いているのは大きく二箇所。ヅィバン家とアクラブ伯の、アルリシャ伯への挟撃は小競り合い程度だが、ソーマ東部を取り合うネクトール公とカーダモン伯の衝突はやや激しいものだった。


 11月半ば、アルリシャ伯より来客があった。
 政庁へと衣替えしつつある王宮外苑の建物の一つを、トラファルガ家はその公邸としていた。
 落ち着きを取り戻しつつある王都の様子をゆったりと眺めながら、アルリシャ伯重臣ヴァレーリア・デ・コリーナは公邸へと辿り着いた。
 アルリシャ伯アリアベルタと同齢の、伯の半身とも呼ばれた彼女の来訪は、アルリシャ伯デ・ファーナ家が何らかの意思を表明するものと思われた。


 すっかり秘書官の様が整ったクリステン・エンドラケンと、まずは型通りのやり取りを済ますと、ヴァレーリアは率直に用件を伝えた。
「アルリシャ伯デ・ファーナ家は、全ての戦闘行為を中止しトラファルガ家トール・グリペン様に服属致します」
「よく、御決意なされましたな」
 そう応えるクリステンに、ヴァレーリアは肩の荷が下りたような笑みを見せた。
「もう、戦い続ける意味が無くなった。と我が当主が申しました」

「アリアベルタ殿がか?」
 いくつかの執務を終えたトールが会見室に入ってくる。
 それを見て、ヴァレーリアはずっと脇に携えていた書類鞄をクリスに差し出した。
「これは?」
「まず初めに、トール様に御覧頂きたいと渡されました」
 クリスの脇に立ったトールに鞄が渡される。トールはそれを開ける。
 分厚い書類の束があった。取り出し、綴じられた表紙を見る。トールは感慨深げに目を閉じた。
「アルフォンス・ディルガンを初めとした関係者の供述書か…」
「はい、トール様が必要とするだろうからと、アリアベルタ様の下まとめました」
「持参金のようなものか?」
「どのように解釈なされようと構いません。念のため申し上げますが、それには我らの思惑を一切混ぜてはおりません」
「いや…有難い。もらっておくよ。ところで、当のディルガンはどうなった?」
「少々『隙を見せました』ところ、逃亡しネクトール公領に消えました」
「…ほう? で、アルリシャ伯は何と?」
「ネクトールがディルガンを匿い、なおかつ引き渡さないとなればいくらでも『口実』にできましょうと…」
 トールは苦笑する。
「そんな『気遣い』はいらぬと伯に伝えてくれ。…それで、もし俺が『それ』を有難く受け取っていたら、俺はどう採点されてたんだろうね?」
「…申し訳ありません」
「別に構わん、君が謝るな。…では、正式調印の使者は早急に派遣してくれ。あと、これは俺の個人的な申し立てだが」
「何でしょうか?」
「アルリシャ伯に伝えてくれ。優秀な政務家が喉から手が出るくらい欲しい。特に宰相が欲しい」
「…はい?」
「今の言葉通りに伝えて欲しい。…じゃあクリス、後は任せる。マルティンとユーロパ公にせっつかれてるんだ」
「了解しました」
 トールは早足で会見室を出る。その間際振り返り、彼女に念を押す。
「頼むぞ、ヴァレーリア殿」
「は、はい」
 ヴァレーリアは丁寧に会釈し、おそらく新王になるであろう男を見送った。



 アルリシャ伯領に戻ったヴァレーリアは、トールの伝言を「個人的な」との言葉から判断し、就寝前の私的な時間にアリアベルタへと伝えた。
 部屋を訪れたとき、既に寝酒を嗜んでいたアリアベルタは、それを聞いて笑い出した。珍しくひとしきり笑い続けた。
「噂通りの男じゃないの…本当、馬鹿なのか賢いのかわかんないわ」

 ヴァレーリアは彼女を見つめた。幼いときからもう長い付き合いだから、この姫君の表情は知り尽くしているつもりだ。
 『アリア』が普通に笑うのを見たのは久しぶりな気がした。彼女が親を亡くして、もうこんな表情は失くしたと思ったこともあった。

 だから、少しだけ、涙が出た。



 リシテア家、シノーベ家臣従。そしてアルリシャ伯従属

 アンブローシア連合王国・サダルバリス王歴266年11月末、アルリシャ伯従属を受け、トール・グリペン・トラファルガは旧サダルバリス王家並びに傘下諸侯らの信認に依る暫定王位に就いた。
 そして内戦後の復興策を発表し、これと同時に先王の暗殺及び一連の国内不穏とそれらに乗じた騒乱が一種の陰謀行為であったと正式に断じた。その首謀者の筆頭に摂政デミトリス・アルワイドと宰相アルフォンス・ディルガンの名を挙げ、なおシラー伯マティアスらによる調査を継続中であると告げた。
 さらに、ヅィバン家、アクラブ伯、ネクトール公、カーダモン伯に対し停戦を呼びかけた。

 前の諸侯会議議長アーサー・シーベルト・ヅィバンは、内戦直前の王領簒奪によって、トラファルガは自分を許しはしないと断じ、今だ不戦同盟を結んでおり経緯を報告すべしとの一部家臣団と対立する。

 ネクトール再独立を目指していたネクトール公バーンハードは、内戦前期に立ち塞がったデーニッシュ侯に完勝したため、やや気が大きくなっていた。家臣はトラファルガとの国力の圧倒的な差を訴えるが、ネクトール公はソーマで拮抗するカーダモン伯しか頭に無かった。

 カーダモン伯フライバートは、ネクトール公の反乱鎮圧のためこれと対決しているという形に持って行きたかったが、続いている戦闘に追われてしまっていた。

 アクラブ伯コルスは、軍を止めはしたものの沈黙している。


 12月、アルリシャ伯が従属したことで、アクラブ伯とヅィバン家の同盟が崩れた。
 ここにおいて、本国でのアクラブ伯対ヅィバン家、ソーマでのネクトール公対カーダモン伯の衝突が、国内に残る騒乱となった。


 明けて王歴267年1月、まずヅィバン家との同盟を破棄
 ヅィバン勢臣従家が一斉に離反した。そのうちアルゲテナル家、テーミン家、アロウ家、ミネラウバ家がトラファルガに鞍替えする。

 ヅィバンの軍勢の多くはアクラブ伯との境界線に集まったため、トラファルガ軍は圧倒的な戦力でアンブローシア本省のヅィバン勢の動きを制し、これを本省外へ排除する。


 2月、アーサー・シーベルト・ヅィバンが親族並び家臣らに連れられ王都に出頭した。
 アーサー自身は、まるですぐにでも処刑台に上がろうかという勢いだったが、家臣らがそれを必死で抑えているようだった。
 知っていることを洗いざらい包み隠さず述べよ。トールはまず、アーサーにそう言った。

 スハイル家鞍替え、ヅィバン家従属志願ファクト家、トリマン家と同盟
 さらにスハイル家、ミネラウバ家、アルゲテナル家、テーミン家、アロウ家、ハダル家、スサカン家、東分家イーストランドを臣従
 そしてアクラブ伯従属。その傘下サルガス家臣従


 3月ファクト家、トリマン家を従属
 ヅィバン家、アクラブ伯、カウス家、クルス家、シトゥラ家、メリデアナ家、ジャバフ家、臣従
 残るはソーマ地方の旧マジョラム通商会議圏内で戦いを続けているネクトール公とカーダモン伯のみ。軍勢をアンブローシア内陸部へと向かわせる。


 カリスタ侯、キャストル家ら南部傘下諸侯と連携し、短期でネクトール公とカーダモン伯の衝突を抑えるため、トールも南に向かった。途中、アクラブ伯領アルニャートに立ち寄った。アクラブ伯コルス・アンタレスの会見希望があったのだ。

※念のため、ネクトール公領北側はアルリシャ伯、北辺伯の軍勢で蓋をし、客将を用いた軍団として待機させたが、これは結局使わなかった。


 アクラブ伯コルス・アンタレスはかねてより変人として通っていた。
 素顔を隠し、あまり人に姿を見せない。それでいて領地はよく統治しており、またこの内戦でも戦上手の一面を見せた。ただディルガン勢をヅィバンと共に倒して以来、これといった動きは見せなかった。

 コルスは人嫌いであるからと、会見前に人払いを請われる。流石に今のトールを一人にするわけにいかないとトラファルガの者たちは反対し、レオフウィン・メイベルと二人、奥の部屋へ向かう。アクラブ伯側の者さえついて来なかった。
 もっとも、目的の部屋は館の突き当たりで特に案内が必要でもなかった。

 突き当りの部屋で、男が一人待っていた。
 コルスは蔵書家としても知られていた。壁中に聳える書棚の脇に、覆面をした男が立っている。
 容貌から、話に聞いていたコルス・アンタレスらしい。
「お待ちしておりました」
 男が言った。トールとレオは彼に近づき、トールは男に手を伸ばした。それを男は制する。
「申し訳御座いません、トール・グリペン様」
 レオがトールの顔を見る。どうやら何かに気づいたように見えた。
「もしや、あんたは」
 男は覆面を取り、素顔を見せた。覆面で隠す必要は無い顔だった。
「私は、コルス・アンタレス様ではありません」
「影武者か?」
 男は書棚の仕掛けらしきものを動かしながら答える。
「捨てた名は、マキシマス・カルディアと申します。ブラキウムの長男ですが、庶子にあたります。カルディアの家には幾度かアンタレスの女性が嫁いでおり、私はコルス様に似ていたのです」
「それで影武者か?」
 部屋の隅にあたる書棚がずれ、通路が開いた。
「いえ、初めはそうでしたが、今は違います…こちらへ」
 男はトールらを通路にいざなう。先導され、奥に入っていく。
「アルニャートだけでなく、アンタレス家の館にはこのような設備があります。巧妙に隠され、ほとんどの者がこのような空間さえあるのを知りません」
 通路の突き当たりが急に明るくなった。天窓から光が入る部屋があった。部屋の中に何人かいた使用人がいずこかに引き込む。
 部屋の中央に寝台があり、横に車椅子がある。それに人が座っていた。相当に痩せ、身体がやや歪んでいるように見えた。
 男…マキシマスがその横に跪き、トールに言った。
「わざわざ御越し頂き、有難く存じます。こちらがコルス・アンタレス様です」
 車椅子の上の人が声をあげた。半分ほど聞き取れなかったが、このような姿で済まない、と聞こえたような気がした。


 マキシマスが通訳するような形で話が進んだ。
 コルスは筋肉と骨格が徐々に衰えていく病に罹ったという。内戦前から兆候が現れ、十年ほど前からこの状態になった。それ以来、マキシマスが表向きコルスの振りをし、コルスの指示を実行してきたのだそうだ。それはマキシマス自身、只者ではないことを示していた。

 コルスは、今回の内戦の内幕をトールらより以前から見抜いていたようだ。限られた、だが出来うる限り広範囲の情報を手に入れ、今のトールらの結論にほぼ等しい推論を立てていた。だがその時点で内戦は回避不可能になっており、彼自身まともに動けない身体になっていた。だが、トールがいれば良かったと考えていた人物は、まさしく実在していたのだった。
(どこが変人だ、聡明極まりない人物じゃないか)
 コルスとの会談で、そう、トールは感じた。


 頼みがある。そうコルスは切り出した。
 コルスの続く言葉を、マキシマスは初め、伝えようとしなかった。コルスは何度も繰り返し、とうとうマキシマスは折れた。
「私はもう長くはない。心臓がそう保ちはしない。…私が死ねば、この男は共に自らを葬ろうと考えている。コルスでも、マキシマスでもない男として、解放してやって欲しい」、
 トールはコルスの手を握り、「わかった」と告げた。
 コルスは聞き取りにくい声だったが、確かに「ありがとう」と言った。




 4月、ファクト家、トリマン家、アルリシャ伯、ブラー家、アンブローシア海軍が臣従
 ネクトール公、カーダモン伯に最後の従属要求。


 5月ネクトール公、カーダモン伯との不戦同盟破棄。ノア家鞍替え
 両家に攻撃開始。共にソーマでの戦線から手が放せず、トラファルガの手によりいくつかの拠点を落とされる。両家は恐慌する。素直にトラファルガに服従すれば良いのだが、互いに向き合う中、矛を収められないでいた。


 6月、コルス・アンタレス没。
 ネクトール公傘下のバーボネラ家鞍替え、ノア家ともに臣従させる。さらにディサローノ家鞍替え


 7月カーダモン伯従属志願
 ディサローノ家臣従
 ネクトール公従属


 8月、ネクトール公から離脱したものの、ネクトール、カーダモン両家の狭間でトラファルガに庇護を求める機会を逸していたパースリ家が臣従志願
 ネクトール公、リキリジア家、サダルバリス家、ロデレール市臣従


 こうして、アンブローシア連合王国で勃発した内戦は、ほぼ十年の時を経て、トール・グリペン率いるトラファルガ家によって収められた。






<後日談>
 アンブローシア連合王国にどうにか平穏が訪れてから、半年ほどが過ぎた。
 トールが進める国の再構築は、まずまず順調に進んでいると言っても良い。だが時間はまだまだ掛かると思われた。国の枠組みそのものを少しずつ変えていくのだ。政府機構を中央にまとめ、諸侯の権限をある程度剥奪する。反発は十二分に予想したが、ほぼ全ての諸侯が内戦によって疲弊したがために今のところスムーズに進んでいた。

 だが問題はまだある。例えば、トールはこれまでの諸侯会議とは別に市民議会の設立も考えていた。その議員をどう想定するかは頭の痛い問題だった。
 これもまた、トールは率直に意見を示し、人々を説得していった。
 トール・グリペン・トラファルガは軍事面での才能が主である人物と目されていたが、それは塗り替えられつつある。彼の才気は意外なほど広範囲に及び、人々は彼のどこからそのような様々なアイデアが現れるかと感嘆した。

 アルリシャ伯アリアベルタは、散々辞去したもののついに折れ、宰相の任を受けた。マルティン・ケア、イアン・ギュネス・キャストル、ウィンスペクト・ローゼスの三者が専任長官となり、彼女と共に行政組織の構築を始めた。

 シラー伯マティアスと北辺伯アラルド、次期カリスタ侯ニコラウスは国内警備組織の整備に邁進している。同時に内戦に関する調査、不審者のの摘発も続いている。
 この最近の成果としては、西方教会新教皇を初めとした協力により、前枢機卿エイブラム・アルティムの身柄拘束がある。
 これに関連して司法機関の再整備も待たれるが、こちらは人材の選抜中である。

 アーサー・シーベルト・ヅィバンとネクトール公バーンハードは当主から身を引き、次代に家を委ねた。他にも多くの家で世代交代が進んでいる。

 多くの者が国の再建を担い動き始めていた。

 その一方で、トールは情報をどう司るか、頭を悩ませていた。各地から届く様々な情報は、その量は甚大でありながら時間差がある。これを適正に解釈する人材はそうそうにいなかった。また、その意義をしっかり把握できる人材もなかなかいない。トールの感覚からすると、そういった面ではまだこの国あるいは世界はのんびりとしていたのだ。
 また情報を把握できたとしても、それを悪用されるのはなんとしても避けなくてはならなかった。それらの認識を十全に備えた人材を探し出さなくてはならなかった。
 つくづく、コルス・アンタレスが惜しまれた。


 このとき、まだトールの懸念は彼を中心とした一部の者が共有するばかりだった。
 だが、それをより多くの者が思い知らされることとなる。


 当然のことながら、アンブローシアの全ての者がトール・グリペン・トラファルガを歓迎したのではない。
 全ての領主が彼に服したが、いくらかの者は、反乱者としてあることに益無しと判断したに過ぎない。
 全ての民衆が彼が次代の王であると考えたが、いくらかの者の身内は、彼の軍勢によって失われたのである。
 そしてまた、トールはいくらかの者どもが抱いた、混乱に乗じ成り上がる願望を潰したのである。
 全くの悪意は、案外少なかったのかもしれない。平穏が望まれたのだ。だが、煮凝りのような意思が、『それ』を行わせる状況を整えていった。

 例えば、今トールが通っているのは、デミトリス・アルワイドの尖兵として多くの者がトラファルガ軍の前に露と消えた、旧南ズーベン領であった。




 トールがふとアルゲニブに向かおうと考えたのは、ズーベンの視察が思いの他早く終わり、時間が空いたことによる。
 それと、彼のハイランディアでの弟分にもあたるテオドリク・アルゲニブが、内戦終結後床に伏してしまっていたのだ。容態はあまり思わしくなく、兄のマウリッツから、機会があれば見舞いに来て欲しいと懇願されていた。つい先頃、テオは子を得たばかりでもあり、その兄の希望にそのうち応えてやりたいと思っていた。

 そして、ほぼ一日が空いたため、トールはアルゲニブへと向かうことにした。
 数名の護衛を引き連れ、馬に乗り出立した。
 王都への連絡、馬の引継ぎ、その他諸々の指示をしていった。

 だが、指示を受けたうちの一人が、これを無視し、別のところへ報告した。その際、共に指示を受けた本来同僚であるはずの者達を殺害し、逃亡した。
 雨で道をずらせたほうが良いとトールらに助言した老婆は、トラファルガ軍に息子たち全てを奪われていた。
 そして、南ズーベンは多くの働き手を失っていたため、このとき、比較的出稼ぎ者が多かった。


 初めは、護衛の一人がバランスを崩し落馬したと思った。滝の音が周囲に響いていた。皆で馬を留め、彼を助けようとしたとき、滝の音に異音が混じっているのに気づいた。
 銃声だ。
 落馬した者が動かないのを確認すると、仕方なく置き去りにし、馬を走らせた。なるべく見晴らしが利く移動しやすいルートを探したが、トールの庭にあたる地域はまだ先だった。
 待ち伏せがいた。護衛がそれを抑え、トールを逃がす。
 護衛が一人、二人と減っていく。トールは雲行きが怪しいと痛感した。追い込まれているように感じた。
 何かの反射光に気づく。護衛がトールの前に出た丁度そのとき、銃撃を受ける。最後の護衛が斃れた。トールは馬の向きを変え、どうにか血路を見つけようとした。

 だが、トールの前に兵の一団が立ち塞がった。まんまと袋小路に誘導されていた。
 馬の脚が撃たれ、勢い余って放り出される。右肩から落ち、右上半身を地面に打ち付けた。息が苦しい。
 兵の装備には、アルリシャ伯のクリナムローズの紋章がこれ見よがしについているのが見える。

(馬鹿野郎…、セコいったらねえなあ…こんなセコい手に引っ掛かっちまった)


 銃声が鳴り響く。
 トールには、目の前の光景が緩やかに歪んでいくように見えた。






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