母艦から切り離されたシャトルクラフトは、その＜領域＞に進入した途端現れた青い惑星に向かった。
間もなく母艦が掻き消えるように姿を消したのが、シャトルのコックピットから確認できた。予測通りの光景だ。問題は無い。
シャトルの乗組員は一名。本来の降下班編成に反したものだが、今回の行動は特例続きだった。そもそも彼女は部隊の内務主任で降下要員では無いが、これも特例だった。もっとも、彼女の部隊はよく言えば汎用、悪く言えばドサ回りの便利屋だから、柔軟に対応するのはよくあることだ。
探査プローブで事前に降下地点として選んでいた台地へ降りるよう、プログラム設定を確認する。コンピュータが表示するチェック済み項目を手持ちのチェックリストと見比べる合間に、モニターに映る惑星を彼女は見た。
数多の人類居住惑星と変わらない。夜側の地表には仄かだが都市の灯りが見える。ここにも人々の世界があるのだ。プローブによる事前探査でわかっていたことだが、この光景は彼女が知る他の星々と少々意味が違った。
この星から射出されたプローブと、彼女らが投入したプローブから得た情報を総合すれば、ここは人類が移り住んだ惑星では最も長い歴史を築いたものとなる。だが、計算が合わない。素直に遡れば、この惑星の歴史の起点は人類が宇宙に出る遥か以前になってしまうのだ。
ということで、有人探査に切り替え、予測されるこの＜領域＞と＜外＞とのギャップをキャンセルできると思われる唯一の人材である、彼女が降りることになった。
元々予定された行動ではなかったが、確かめねばならないことがあったのだ。
シャトルの周囲に展開した推進フィールドで減速し、惑星周回軌道から弾道軌道に半ば無理やり遷移させ、成層圏まで降下する。予定数通りの中継兼観測プローブを放ち、更に減速し滑空降下へと移行。機体のコントロールは自動だが、諸々の作業とチェック項目の多さから、楽なのかそうでないかよくわからない。
目的地が近づく。人々の生活反応が検出される。察知はしていたが、やはりかなり人口が大きな地域のようだ。だが隙間もある。この惑星最大の大陸のくびれた部分、南北に連なる山脈の中に山嶺で囲まれた無人地域があり、おあつらえ向きに平坦な台地がある。とりあえずのキャンプ地には丁度いい。
フィールドの出力を上げ、ゆっくりと台地の上に着陸する。
最初から最後までフィールド推進での惑星降下は久しぶりだった。ほとんど無音だったろう。だが念のためとはいえ、補給の見込めない場所での、この動力源消費はちょっと痛い。まあ予定のうちだからいいのだが。
降りた後のチェック項目も膨大にあった。再度の大気チェック、生きている探査プローブとそのリンクチェックにストックされたデータの査定、サポート装備…などなど。
未探査惑星の調査を一人で仕切るのだから、それはまあ当然なのだが、彼女は流石にうんざりした。母艦のバックアップが無いことが、改めて寂しくなる。
「でも言い出しっぺだからなぁ…。まあしゃあないか」
当面独り言が多くなりそうだな。と彼女は思った。
大気に問題が無いのを確認すると、コンピュータによる自動チェックはそのまま続けさせ、彼女はコックピット下のデッキに降り、コンテナの展開を始めた。コンテナの中身が当座のベースキャンプと移動手段になる。シャトル自体は帰還待機状態でデータ収集基地とする。
デッキのエアロックを開き、外に降りた。高原の涼やかな風に草の匂いが混じる。猫のように伸びをしながら、深く息を吸った。なにかニヤけてくる。
巨大な輪を持つガス惑星の衛星で育った彼女には、自然物に対して多少なりとも憧れがある。衛星表面の何割かを覆い尽くす天蓋の下には重力さえ調整された環境があるが、それが限りなく本物に近くとも、造られて何百年かのものでしかない。両親に連れられ初めて見た地球の光景の方が、遥かに刺激的だった。
「でもまあ、これもある意味人工物かもしれないのか」
声に出したのに気づいて、少し歯痒くなった。
まあそりゃ、独り言が多くなるとは思ったけどさぁ、あたしの声しか聞こえないってのも気色悪い。
彼女は作業の優先順位を換えることにした。先に曲りなりにでも話し相手を用意した方が良さそうだ。居住ユニットより移動手段の起動の方を先にする。
荷物の半分を占めるＭＰＤのパレットを開ける。ＭＰＤ-マルチパーパス・ポインティング・デバイス-は、簡単に言えば回転翼の無い小型ヘリコプターのような物だが、元々は機動歩兵の移送機という性格から最大出力は大きい。その可変型フィールド推進翼は、短時間ならこのシャトルクラフトを持ち上げられる。だが今回のところは最大出力より航続力を優先したセッティングにしてある。
パレットを開け、急な要請だったのに係らず能率的にパッケージされたユニットを見て、彼女は母艦の格納庫スタッフに感謝した。彼女が現地で設定する部分は極力抑えられているのが見てとれる。
とはいえ、こなさなければならない作業量はそれなりにある。
パレットのインジケータを起動させ、シャトルから動力線を引く。ＭＰＤの、待機状態の＜動力炉＞に＜点火＞キーを入れ、稼動状態になるまで慎重に待つ。この世界はまだ電力が普及していないようだが、今彼女が扱っている動力を電力換算すれば、おそらく大陸中に電球が灯せる。
＜炉＞が順調に稼動しているのを確認すると、次に機能チェックだ。
ＭＰＤの、本来なら諸々の搬送ユニットが繋げられるコネクタには、今は＜脚＞が据え付けられている。不整地走行用のエアー浮上と若干の歩行が可能。動力を食うフィールド推進をいくらかでも抑えるための装備だ。使い道はあるのか、あるいは単に着陸脚として使うことになるかはよくわからない。とにかく、それの分チェック項目が増えている。
最後に自律機能の関連付け。増設したユニットを立ち上げ、これもチェック。それからインジケータの感覚機より、まず彼女を認識させる。呼称はどうするか？ 一瞬考え、彼女は最も好んで使う偽名を入力する。
＜エリス・ヴァイゲルト＞
潜入行動ではないのだから大して意味は無いかもしれないが、切り替えみたいなもの。リアルの方は元からデータバンクに入っているし、問題は無い。
ＭＰＤ本体の感覚機を立ち上げる。
機体前部の五つの感覚機を、生まれたばかりの草食動物のようにきょろきょろと動かし、最後に＜エリス＞を見定める。後は突発状況に応じた個性を入れてやればいい。
と、その前に。
ＭＰＤの呼び名を忘れていた。機種名では味気なかろう。
「じゃあ、ニムロッド。愛称はニム」
ふと思いつき、エリスは実家で飼っていた最も大きな猫の名にした。
「起きた？ ニムロッド」
＜はい。エリス＞
「コンディションを自分でチェックしなさい」
＜はい。…オールグリーンです。エリス＞
どうにか話し相手はできた。
機械相手だが、まあ独り言よりはマシだろうとエリスは思った。
最初の二日間は、ベースキャンプの整備とシャトルのコンピュータが項目ごとにまとめたデータの再選別に費やされた。
居住ユニットは艦長に交渉して小さいながら住み心地の良いのを出させた。リゾートシーズンのキャンパーを気取るくらいできる。やらないが。
食料は各種レーションを取りまとめて持ってきたが、いつまで我慢できるが若干不安が残る。効率良い栄養摂取が目的とはいえ、この手の物の味は一段落ちる。だがこの点に関してはエリスは誰にも文句を言えない。それらの発注の責任者は内務主任の彼女だからだ。少量だが持ってきた普通の食料品が貴重になる。
カムフラージュはアクティブ・レーダーと遮蔽装置を連動させた。ここまで入ってくる人間はいないと思うが念のため。
データチェックの方は大きく二系統に分けている。
一つは事前に母艦から打ち込んだ探査プローブが得たこの惑星のデータ。
大きさ、軌道、自転・公転速度、自然環境…それらはテラ（地球）に近い。まるで連邦の初期移住選定規格に当てはめたようだ。
公転軌道はほぼ正円に近い楕円、自転軸は公転面に対し１５度傾き温帯地域には四季がある。ルナ（地球の月）よりは小さいが潮汐作用をもたらす衛星が一つ。
連邦拡大最初期にこのような惑星が見つかっていたなら、間違いなく第二のテラと呼ばれたろう。だがここは、条件が整えられた揺りかごのようだ。エリスはそう思った。
一見ソル（太陽）のようなG型恒星がある。それが纏う惑星系はこの星のものだけだ。岩石型の内惑星もガス型の外惑星も無い。恒星スペクトルは確かにG型だが、大きさはソルの半分も無い。この惑星の公転軌道はソル太陽系でいえばメルクリィ（水星）とヴェヌス（金星）の間程度。
恒星一つに惑星系が一つ、それをすっぽり覆うような時間経過が早められた空間。それがこの＜領域＞の内訳だった。
彼女の母艦、航宙フリゲート＜F.S.F.ユニコーン＞がこの＜領域＞を見つけられたのは、漂流するデータ・チューブを回収したことに始まる。
連邦航宙艦に広く使われる探査プローブは、通常通信が届く範囲に受信者が全くいないと判断した場合、圧縮した最低限の情報を詰めたデータ・チューブを射出する。チューブは一度だけハイパードライブ（超空間駆動）を行い、設定された人類可住域すなわち居住惑星を持つ恒星系に辿り着くために跳躍する。
銀河連邦がこれまでに探査を終えた領域は確かに広大なものだが、人類の生活圏自体は恒星系とそれらを結ぶ航路でできた網目でしかない。網目から外れれば、外れた物を見つけ出すのは困難となる。
だからこそチューブはその動力のほとんど全てをかけて、ハイパードライブでできる限り人類世界へ近づくはずだが、＜ユニコーン＞がそれを発見したのは網目の外、しかも既にハイパードライブを終えた状態だった。
＜F.S.F.ユニコーン＞がそのチューブを見つけたのは、まぐれに等しかったのだ。
そのチューブから得られた情報は、それが放たれた方向と時間、そこにある天体の大まかなデータ、そしてそれを放った者。
約二年前、消息を絶った移民船団の継続探索任務中にやはり消息を絶った、航宙フリゲート＜F.S.F.トラファルガー＞。
不自然な重力異常からそれらしい＜領域＞を発見する。
艦長は探査プローブをまず一基、そこへ射出した。プローブは消息を絶ち、チューブが設定された＜ユニコーン＞近傍へ出現する。
これにより、回収したチューブのデータが正しいこと、そして＜領域＞に入るだけは容易くとも、出るためには一度きりのハイパードライブを行ってしまうことが確認された。
次の疑問。
回収したチューブのタイムスタンプが、なぜ＜トラファルガー＞失踪後三百年の経過を示しているのか？
艦長は＜ユニコーン＞が搭載する探査プローブの半数を投入する。探査要目とタイミングをずらし、断片として得られるデータを組み合わせる。
そして判明したのは、＜トラファルガー＞の消息が些細なものでしかない事態。
＜領域＞内には恒星系が存在する。
＜領域＞そのものは、人類のハイパードライブとほぼ同じ物理理論が適用されたものと考えられる。従ってハイパードライブを可能とする航宙艦の出入りは可能。但し、ハイパードライブが空間制御であるのに対し、＜領域＞は時間制御である。
＜領域＞内外の時間進行差はおよそ三百六十倍である。
＜領域＞を、誰が何の目的で造ったかは不明。
＜領域＞内恒星系には惑星系が一組存在する。惑星の概要はテラに近く、自然生態系を持つ。
惑星表面に知的生命体の生息が確認される。地球人類である可能性が高く、失踪したハイアディジア星域方面第５３次移民船団との関連が考えられる。
その現状での文明レベルは不明。少なくとも電波は使用しておらず、何らかの経緯で退化した模様。
連邦航宙艦＜F.S.F.トラファルガー＞の失踪も、これに大きく係わると考えられる。
時間進行差三百六十倍。
調査を継続するにも、増援を要請するにも、これがボトルネックだ。
連邦標準時で一日が経過すると、あの中ではほぼ一年が経つ。第５３次移民船団失踪時を起点とすると、内部経過時間は約千八百年。調査を進めるうちに、増援を待つうちに何年も経過する。それ以前に、千八百年を経た中の世界はどうなっているのか？ ＜トラファルガー＞はこれにどう係ったのか？ また、この特殊な天体をこの後どう取り扱うのか？
投入した＜ユニコーン＞の探査プローブ、それに生きているかもしれない＜トラファルガー＞のそれら、蓄積されているであろうデータを回収すればかなりのデータが補強されるだろう。それだけなら＜ユニコーン＞を突入させればいい。
だが千八百年を経た世界、これは遭難し救援を待つなんて状態ではない。
それに、なぜ＜トラファルガー＞は外に出られなかったのか？ これが判明しなければ、＜ユニコーン＞だって危ない。
手詰まりではなく、手をつける項目が多すぎる状態だ。だが条件付きの最優先項目があった。
＜トラファルガー＞が、たとえ乗組員が生き残っていなくとも、艦のシステムが生きていれば何らかの対処を継続しているはずである。
根拠はある。あの艦に乗っていたのは緊急救助のエース部隊なのだ。なにもしていないわけがない。それに賭け、＜トラファルガー＞に接触する。
条件は＜トラファルガー＞健在に加えもう一つ。
艦のシステムのセキュリティだ。何らかの手段で更新されていなければ、＜ユニコーン＞乗組員のほぼ全てが＜トラファルガー＞にとっては過去の存在だ。故人では接触はできない。
さて、どうするか？
「なら、私が行くしかありませんね」
艦長室で、＜ユニコーン＞内務主任が言った。
「そうだ。そういうことになる」
誘導じみた意思確認だったため、艦長は珍しく鼻白んだ。
内務主任、彼女はある理由でシステム・セキュリティの年次更新をすり抜けられる場合がある。そして同じ理由で、それを公にできない。部隊内でそれを知っているのは、初編成以来の固定メンバーのみだ。だから艦長は彼女が「やる」と言わない限り、命令ができない。それゆえの誘導だ。
「私でもセキュリティに引っかかるかも知れませんが？」
「＜ユニコーン＞と＜トラファルガー＞は同型艦だ。よほどのことが無い限りシステム構成は変わらない」
「よほどのことがあったかも知れませんね？」
「考えられるが、何もしないより良い」
「そうですね、私もそう思います。では、すぐ装備をまとめないと…」
「もう命じてある」
「あら？」
「シャトルの方はな。生活物資は君の方が専門だから任せる」
彼女は口調を切り替える。どうせ二人きりだったのだから構わないだろう。
「あなたがイケズなのはずっと前からだからいいとして。…じゃあ、一番いい装備を持ってかせてもらいますから」
「いいぞ。書類を切るのは君だが」
「切るのはあなた」
「駄目だ」
「…あっちで浮気するぞ」
「はあ？」
既に艦長と主任の会話ではない。夫婦のじゃれ合いは傍から見れば気色悪いのでここでは省く。
なんやかやで装備使用の決済は艦長に押し付け、スケジュールを詰める。六周期、標準時で四十二日間とする。こちらではおよそ二時間五十分、正式な報告を延ばせるぎりぎりの時間だ。
「私の方が時間的余裕があるわけだから、データ回収と分別は任せて。あなたは増援におかしな連中が紛れ込まないように手を回さないといけないでしょ？」
「その通りだ。悪いが頼む」
彼女はわずかに感傷的な表情を浮かべ言った。
「…姉妹艦である＜トラファルガー＞の痕跡を私たちが見つけたってのも、何かの縁なのかしら」
「さあな。そう考えたければそう考えてもいいだろう。ただ、奴らが何の考えも無くプローブを打ち上げ続けたのではない、それは確かだ」
「うん…そうよね」
彼女は艦長室を出る前に振り返る。
「心配しないでよね、あたしは帰ってくるから」
「わかってる」
「ああ、それから浮気なんかしないから安心してね！」
「まだ言うか」
艦長は続ける言葉を飲み込んだ。次に会うのがこちらは三時間後でも、彼女は四十二日後だ。多少ふざけようが大目に見よう。
チェックを続けているもう一系統のデータは、この世界に住む人々についてのものだ。
具体的な文明・技術の度合い、言語、宗教、国を初めとした共同体の成り立ち…この世界の人々を連邦がどう扱えばいいかの指標となる重要なものだが、エリスの調査にも必要な情報だ。
ここの人々と全くの接触無しで済ませることはできないと思われた。大学や図書館の類があるとすればなおさらだ。
初日に放った偵察用マイクロロボットから送られてきた情報を見ていく。まだカバーする範囲は狭く、ロボットたちは田舎の集落らしき場所までしか届いていないが、どことなく片鱗は見えてくる。余分な情報は省くよう設定してあるものの、一方的に彼らの生活を覗いているようで、少々バツが悪い。
人々の見た目はやはり地球人だ。
電力や無線の類は使われていない。機械も大した物は無いようだ。その割りには日用品の類は揃っている。千八百年の間に維持しにくい物はなくなり、基本的な物はなんとか残ったというところか。
言語はどうにか聞き取れる。いくらかは意味がわからない。連邦標準語を基本に各言語が方言のように混ざり込んだか？ 地球時代のヨーロッパ言語圏をかき混ぜた感じだが、アジア系の単語もたまにあるようだ。とにかく全くわからない言語になっていないのは助かる。そりゃあ翻訳機は設定すればいいが、自分から話す分には覚える必要があるからだ。
宗教は…祈りを捧げる対象があるらしいのは確認。
村長とか、共同体の体裁は整っているらしい。国もあるようだ。そこそこまとまっている感じ。エリスがいる盆地の北側はカリスタ、南側はプロセルピナかノルディカと呼ばれる土地（方角は自転方向から決めた。つまり日の出の方向が東）。
「うわ…」
プロセルピナが地名になっているのを見て、エリスは声を漏らす。
「単語の意味が変わってるんだろうけど、ローマ神話の冥界の王妃じゃない。国の名前にするかなあ…。あ、豊穣の女神の娘って意味の方が残ってるのか」
個人的な興味でこの手のものをデータ検索条件に加える。
ざっと整理すると、文明レベルは幅はあるものの、テラでの産業革命以前の状態と言えそうだ。見る限りは生活基盤もそれなりに整っているようだ。どのような経緯でこれに至ったかは推測の域を出ないが、遭難の時点で移民船団は大半の物資や設備を失ったと思われる。おそらく人材も。
第５３次移民船団の員数は三千万弱、船団が健在ならその船体は彼らの都市基盤となり、居留地を自給自足まで導くことになっていたからだ。
そして投入するロボットを追加する。ロボットたちの偵察範囲がもっと広がれば、また色々とわかってくるだろう。ついでに早く図書館でも見つかってくれればと彼女は思う。
それから抽出した言語情報を翻訳機に繋ぎ、体系化を命じる。ここの人々は翻訳機を持たないのだから、早いうちに喋れるようにした方がいい。ああ、読み書きもだ。
時間的余裕？ 艦長にはああ言ったが、あまり無いかもしれない。
惑星データの方は、選別した項目のチェック以外ほぼ機械任せにしているが、彼女用の最優先事項がまとまったようなので、それを見る。
地質分析図だ。
エリスは大きく溜め息をついた。彼女はこの手の専門家ではないが、何が起こったか想像は付いた。
惑星の広範囲に散らばる自然ではありえない分布を示す合金とセラミックス。多分、航宙船の複合素材だ。多くの船が惑星に降り注がれたのだ。原型を留めたものもあるかもしれないが、全て調べ回る時間は今回は無い。
比較的近いと思われる地殻変動らしき痕跡も見られる。かなりの大災害でも起こったのだろうか？ また、エリスの現在地の北方に面白い地形を見つけた。クレーター？ いやカルデラのようだ。えらく大きいが。
そのカルデラの中に、比較的大きな金属の塊がある。鉱脈にしては妙だ。図を拡大する。
形を残した航宙船か？ それにしてはかなり地下にあるようだ。
仕事柄、彼女は物事を鵜呑みにしない癖をつけていたが、それでも当たりを引いたような気がしないでもない。何が出るか実際のところはわからないが、第一目標としよう。
三日目の午前、ニムロッドの脚の作動試験をする。問題は無いが、エアー浮上はともかく歩行は馴れが必要だ。誰だ、こんな装備思いついたのは。
（うちの部隊って、ときどき実験台みたいに変な試作装備が送られてくるのよね。便利屋扱いも大概にして欲しいわ）
食事後に脚を使うのは避けよう、とエリスは決めた。
実働は初めてだったので、ニムロッドのメンテナンス・ハッチを一通り開けて見てみる。
「ニム、あんたも自分でチェックしなさい」
＜はい、エリス＞
「今どこのハッチが開いてるかわかる？」
＜右脚部ユニットの間接部です＞
「よろしい」
手際良く進めていく。これが終わればまた諸々のデータチェックだ。
「それにしてもさあ」
＜なんでしょう？ エリス＞
「一人になってわかることってあるよね？」
＜と申しますと？＞
「あたし、よく『口から生まれた』って言われてさ。そんなことないわって思ってたけど、やっぱりそうかもしれない。しゃべり足りないみたいだわ」
艦長なら「今頃気づくな」と言い返すだろうが、ニムロッドにはまだ彼女に関するデータ蓄積が足りないために、適当な言葉を返すしかなかった。
＜私ならいくらでもお話し相手になりますよ、エリス＞
「あー、そう」
それがわかるから、エリスもそっけない。
「あー、そうだ」
＜なんでしょう？ エリス＞
「あんた、はい、いいえって答えるときはドイツ語にしなさい」
＜はい？＞
「いいから、はいのときは『ヤー』、いいえのときは『ナイン』ね」
＜…それに一体何の意味があるのですか？＞
「意味？ 無いわよ。…強いて言えば、『ヤー』と『ニャー』は少し似ている」
＜……わけがわからないのですが＞
「あんたにつけた名は昔あたしが飼ってたネコの名前。以上。わかった？」
＜…はい＞
「わ・か・っ・た？」
＜ヤー、エリス＞
「よろしい」
ニムロッドはエリスがストレスか何かでおかしくなったのかと「思い」、彼女の身体データを採りシャトルのコンピュータにも伺いを立てた。
シャトルは＜何も問題は無い＞と返答し、＜彼女はそれで通常、むしろ真面目腐ったときに要注意だ＞と付け加えた。
ニムロッドは「安心」し、言葉の選択肢をもっときめ細かく増やそうと判断した。
「ほな、いくでー。あんじょう発音とか聴いてな？」
＜エリス、初めから訛っています＞
「なんて？」
＜言葉は通じると判断しますが、間違いなく訛っています＞
「なんでやねん、ちゃんと話しとるやん」
＜元の我々の言葉で例えると、ちょうど標準語とあなたの故郷の方言くらいの違いです。気にしなければ問題無いと言えます＞
「今までのデータから、おんなじな訛りがある地域ってあるん？」
＜まだそれを判断するデータが少ないので不明です＞
「…あかんやん」
エリスが用いる標準時で一周期七日間が過ぎた。この世界との時差にも慣れる。
この間、プローブに収集済みのデータは、ほぼシャトルのコンピュータが受け取り終わり、リアルタイム送信されるものも加え、分別と解析を続けている。今のところエリスが直接行うのは、それらのリストをチェックし、自分の活動に要する部分のピックアップを指示するくらいだ。彼女自身は専ら現地情報の収集に努めている。
それにしても、妙な感じだ。と彼女は思う。
今、二隻の航宙艦から放たれたプローブ群は、事実上この惑星唯一の人工衛星ネットワークと言えるものを形作っている。地表で放ったマイクロロボットたちは地域と期間が限定だが一種の通信網だ。ある意味彼女は、この世界で最も広範囲の情報を一手に握る者だった。
もっとも、＜F.S.F.トラファルガー＞のプローブの半数は寿命が尽き、ただ周回軌道を巡るだけの物となっていた。生きていた物もデータバンクを満杯にした休眠状態だった。だからこれらからのデータ回収に、いささか手間が掛かっていた。
今ひとつ時間経過のマジックに実感が湧かなかったが、それで状況証拠は揃ってしまった。少なくとも機械たちは、時間が流れてしまったことを伝えている。実は何かの間違いがあって＜トラファルガー＞の生き残りがいるんじゃないか？ という彼女のささやかな願望は、ただの憶測に過ぎなくなった。
まあ、それは仕方ない。良い方に考えよう。計測通りなら帰りの母艦とのランデブーに誤差はあまり無いはずだ。
エリスは活動範囲を広げる準備を整えていった。
この地の服装に合わせ制服の手直し、携帯装備やニムロッドの装備の選択、現地情報の編纂など、二周期目前半の彼女の行動はほぼこれらに費やされた。
また体系化した言語データはニムロッドに収め、翻訳機と併せて、彼女がこの世界の言葉に慣れていくようテキスト化する。まるっきり違う言葉になったわけではないため、日常会話が交わせるようになるまで時間はそれほど掛からないはずだが。
「ほな、もういっぺん初めから」
＜やはり訛っています。エリス＞
「もう、ちょっと黙っとき」
＜しかし…＞
「もう、とろくさいこと言っとりゃあすな」
＜余計に訛りました＞
「なんでやねん！」
十二日目の朝、スケジュール通り定時に起き、エリスは身支度を整える。
その後を少し、これまでと変える。レーションの朝食ではなく、ここに来て初めて冷蔵庫を開ける。普通に料理をすれば三日分ほどの食料が覗ける。
その中から卵、ベーコン、玉葱を取り出す。パンは仕方ないからレーションのパックのもの。
ヒーターを湯沸し以外に初めて使うことになる。
玉葱を刻み、バターを溶かしたフライパンで時間を掛け炒める。匂いがそう広くはないユニット中に広がる。久しぶりの香りがもったいない気もしたが、匂いが残るのもなんだから強めに換気する。飴色になった玉葱をコンソメスープの鍋に入れ、空いたフライパンでベーコンを炒める。ベーコンがカリカリになったら卵を落としサニーサイドアップだ。
仕上げにコーヒーを豆で淹れ、テーブルに並べる。
＜料理をされるんですね？＞
ひとしきり終わったのを見計らって、モニターで見ていたニムロッドが訊く。
「失礼なことを言うな」
＜申し訳ありません＞
「まあ料理っても、コンソメでごまかしたオニオンスープにベーコンエッグだけどね」
＜どうして今朝はレーションにしなかったのですか？＞
「なんでそう思うの？」
＜栄養価もメニューの種類もレーションの方が豊富だと判断しますので＞
「そりゃそうだ」
＜そんなに味が違うものなのですか？＞
「そうでもないよ、レーションがおいしくなきゃ士気に係るし。そりゃ保存が利いて調理の手間を省く分、その場で料理したのとは違うけど、この程度のメニューなら気分の問題」
ニムロッドは少し思考時間を取った。
＜気分、ですか＞
「そう。今日から空の上から地上を見回り始めるよね」
＜ヤー、エリス＞
「まあ人によるけど、何かを始めるときにちょっとした儀式ってか、気分転換をするのよ。部屋の模様替えとか、まっさらな服を着るとか。あたしの場合は時間を掛けて料理をするの。今はそんなに時間がないから玉葱炒めただけね」
＜そういうものですか＞
「そういうもの。あんたは起動したばかりだからユーザーの個人データが足りないけど、＜ワードローブ＞にはあたし以外のデータもいくらかあるから、あいつが手が空いた時にでももらっときなさい」
ワードローブはシャトルクラフトのことだ。
＜ヤー＞
「うちの部隊は変なのが多いから、あんたは理解できないだろうけど、そういうものだとしなさい。ヒトは単純でややこしいの」
＜ヤー。…そういえばエリス？＞
「なに？」
＜本来なら仲間たちとリンクしデータを分けてもらうのですが、私はそうされませんでしたね＞
「そりゃあんた、時間が無くて起動がこっちに来てからになったからよ」
＜何事もマニュアル通りにはいかないということですね＞
「そうよ」
習熟度の高い人工知能なら、この時の彼女の表情を読み取ったかもしれない。だがニムロッドは、意図的にそのための経験値を与えられないでいた。
＜定時調査ログ 現地経過時間３４８標準時 調査員コードネーム ヴァイゲルト，Ｅ．＞
上空よりの探査と並行し、現地人との接触調査を開始した。
メインキャンプ北方のアンブローシアと呼ばれる国において、連邦宇宙軍規定による言語と身分偽装のカムフラージュ試験をパスした。
この国における暦を確認したため、以降調査ログには現地時間を併記する。
現時点での調査状況。
マイクロロボットによる事前調査の裏付けが徐々に取れている。
アンブローシア国の政体は連合王国。各地にある程度の自治を許された諸侯が封じられ、それを王家が中心となった中央政府が束ねている。この世界では有数の先進国であるらしい。文明レベルは旧世紀十代後半あたりだが、文化レベルはそれよりやや進んでおり、この国においては貧困・飢餓は少なく、物流を基にした商工業がかなり進んでいる。また治安もよく、女性の旅行者が珍しくはないといった状況が調査に有利に働くと思われる。詳細は定期報告書にまとめる。参照されたし。
現時点でのデータ状況。
調査データは適宜、降下シャトル＜ワードローブ＞に転送し、一時解析を進行中。
それらより＜本目標＞の候補が挙がってきている。第一候補は今回の接触調査地域の延長上にあり、現地調査にて確度を上げた上で＜本目標＞候補への接触を開始する。経緯は定期報告書を参照されたし。
以上、定期調査ログ終了。
＜お疲れ様です、エリス＞
「んー」
それなりに穏やかな空の下に、それなりに穏やかな世界が広がっている。この世界の太陽が西の空に傾き始め、空は朱色に染まりつつある。
連邦標準時十五日目の正午は、ここでは夕方までずれていた。
＜どうかしましたか？＞
「…いや、ちょっと拍子抜けしただけ」
＜拍子抜けですか？＞
「今までがルーチンワークだったからね、多少は意気込んでたわけですよ。いやあ、わかってはいたけれどこんなに偽装がうまくいくと逆にいいのかと思う。職業病だわ、こりゃ」
＜しかし、翻訳機を用いず言葉が通じたのはよかったのではありませんか？＞
「多少はあんたのおかげ」
＜ありがとうございます＞
「シューぺリエ出身の旅行者ってことで通じたけど、翻訳機は当面補助で必要ね。あんたは自分が翻訳機でもあるから問題ないよね？」
＜ヤー、エリス＞
「でもまあ、半日ほどのわりに成果があったというかあり過ぎたというか。ほら、この本なんか挿絵入りの観光ガイドよ。ほら見て、普通にレジャーあるのよ、ここ」
＜行きたいのですか？＞
「そういうわけじゃない。こういうものが成り立つってのはそれだけの積み上げがあって、余裕もある、豊かってこと。テラのこの文明レベルの頃は、もっときつかったらしいから。ここはちょっと豊か過ぎる」
＜私のようなものを造る技術などはなくとも、千年以上の歴史はあるということでは＞
「そうなんだろうけどね、あたしのカンに近いちょっとした違和感」
＜ならば私には窺い知れないことですね＞
「そうね」
＜ワードローブ＞からのパーソナルデータ補完とこれまでの十五日間で、ニムロッドはこのような会話にかなりついて来られるようになっている。
「で、このガイドなんだけど、面白い記述がある。＜第一候補＞のある地域はハイランディアっていう。このハイランディアは元は大きな山で、昔にあった大災害の最中にその山が吹き飛んで、その後人が住むようになったところだって」
＜昔というのはどの程度でしょうか＞
「ここには『七百年ほど前のことです』って書かれているわ」
＜時間としては合いますね＞
「そう。非常に当たりっぽい」
＜どうされるのですか？＞
「これから？」
＜ヤー＞
「とりあえず疲れたから帰ってメシ食って寝る。冷蔵庫開けたから中のもの使い切らないといけないし。」
＜いや、そうではなくて＞
「ニムあんた、定時ログを忘れたか。いきなり接触を図るなんてことはしない」
＜…あ＞
人間に合わせたAIの習熟中にたまにあることだ。＜会話＞を優先してしまうことで既に処理した項目を＜忘れる＞。指摘してやることで補正が入るから、エリスの指摘は正しい。
「あたしの性向把握にもうちょっとリソースを割いた方がいいわね。あれが当たりなら本式のコンビネーションがいるだろうから」
＜ヤー、エリス＞
「まだ時間はあるから気にするな。あたしが寝てる間にでもシミュレーションを重ねておきなさい」
そのとき、ニムロッドは文字通り＜叩き起こされた＞。
パレットの上で休眠モード中、分け与えられたデータを元に行動パターン・シミュレーションに＜没頭＞していたところに、強制モード変換コマンドが入る。シミュレーション途中のデータのバックアップなど瞬時に終えていたが、モードを切り替えられた思考はほんのわずか＜戸惑う＞。
「いきなりで悪かったわね」
居住ユニットのモニターカメラから、エリスの映像が伝わる。
＜いえ、お気遣いなく。エリス＞
「突発状況への対応テストじゃないから」
＜ヤー＞
エリスは昼間入手した本の一冊を開け、ページ上の一角を指差した。文字と挿絵だ。
「盲点というかなんというか。こうもはっきり記述されているとは思わなかったわ」
ニムロッドは、彼女が指差す文字を読めと指示していると判断した。いくらか変化したアルファベットを一瞬で訳す。
＜トラファルガーと書かれてますね＞
「＜ワードローブ＞からファイル��1654をもらって画像検索しなさい」
今度は少しだけ時間が掛かった。銅版印刷と思われる挿絵と75パーセントの一致をみたデータが見つかる。
＜連邦宇宙軍、H.E.S.S.司令直属第507独立戦隊の部隊章です＞
「ガイド本の中にその地方の領主の簡単な紹介を載せたページがあって、その一つがこれよ。どこの領主のものだと思う？」
＜データ不足です。わかりません＞
「今あんたの中にあるデータから＜類推＞しなさい」
エリスの態度をファクターに入れることで、回答の確度が五割ほど上がった。
＜ハイランディア地方、それも第一候補そのものがある場所です＞
「よろしい。…507戦隊が何らかの痕跡を遺しているだろうことは予測していたけど、証拠が見つかったのよ。それも部隊章がほとんど手を加えられることなく伝わってるってことは、偶然じゃないかもしれない」
エリスは目を閉じ、ニムロッドに＜意識＞させるかのように時間を置いた。
「彼らの意思が生きているかもしれないってことよ」
サダルバリの城下町を歩く。湖岸の段丘状の地形を利用して、うまく区分けされた街並だ。段丘は街の西側で湖に突き出、その上に城郭が築かれている。外から見る限りでも、よく考えられた造りに思われる。
そう大きな街ではないが、港を中心に広がる繁華街は賑やかだ。人々の表情は明るい。どうやら、この城の主はよく慕われているらしい。
エリスは、街や人や行き交う物々や飛び交う言葉、それぞれを注意深く観察しつつも、街中を歩き回る感覚を楽しんでいた。元々人混みは嫌いではないし、古い街並は好きな方だ。地球（テラ）のそれは保存されているといった趣きがあるが、ここはこれが＜今＞だというのが、妙に肌に馴染んだ。
観光客の振りをして、この土地について訊く。名所や産物や美味しいお店。領主様についても訊く。評判は良い。ここに移り住んで以来、皆に率先して国造りに励んだのだそうだ。そして分家の一つが今の王家になった。ちょっとしたからかい気味な文言以外、悪口らしい悪口も聞かない。
「そりゃそうさね」
魚料理が旨い料理屋の女将が言った。
「よく街に出てくるし、気さくで公平な人なんだよ」
出来過ぎだ。ここまで出来過ぎなら穿って考えたくもなる。だがどうも空気が違う。裏表のある人物は数限りないくらい見てきたが、ここは周りの空気がどうも違う。
エリスはアカデミーの座学で教わった、『理想の国』の話を思い返した。
テラの旧暦の、政治学者か誰かの話だ。
権威主義、民主主義、全体主義。それらを始めとした当時までに現れたありとあらゆる政治体制、システム。まともに運用される限りにおいて、何が最も理想的となろうか。考察の答えを出しあぐねていた彼に、その母親が言った。
『国中に目が届く、優しい王様が居る国が一番に決まってるじゃないか』
（要するにおとぎ話やん）
彼女はそのときそう思った。教官の話には続きがあったような気もするが、思い出せない。何だったか？ つまりは考え方の話だったと思ったが…。
何はともあれ、507戦隊の隊章を受け継ぐここの領主は上手くやっているらしい。
一旦街を出ようと旧市街の城門まで来たとき、衛兵に止められた。
エリスの身分証と通行章を確認した衛兵が言う。
「旅行者の方ですか、御一人ですか？」
「ええ、キャナリィへ留学の途中に立ち寄ったんです」
衛兵がもう一度身分証を見る。物腰にこの手の小役人にたびたびある嫌味が無い。
「ああ、なるほど。学生さんですね。街の外に行かれるのですか？」
「はい。…あのぉ、どうかしたんですか？」
「ええ、申し訳ないのですが、しばらく街の外へは出ないでください。領外から入り込んだ盗賊が潜んでいると報告があって、周辺を捜索中なのです」
つまりは警告なのだが、言い回しがソフトだ。個人的でなく訓練されたもののようだ。
「盗賊って…危ないんですか？」
「ええ。この辺りはいつもなら女性御一人で出歩いても大丈夫なくらいなのですが、今はいけません」
「テイブルピークからの眺めは最高だからって聞いたのに…あかんのですか？ 明日にはカリスタに発っちゃうのにぃ」ちょっと演技過剰かなと思う。
「お気の毒ですが…」衛兵の気の毒そうな顔には、嘘は無いように見える。
「…代わりといってはなんですが、サダルバリ城外郭の街側が開放されてます。夕方少し前の街から湖にかけての眺めもなかなかですよ」
「ホンマですか？」
「今の季節なら出店も出てますよ」
「あ、ありがとうございますぅ」
パタパタとお辞儀をしてその場を去るエリスに、衛兵達は笑いながら手を振った。
（末端の教育も行き届いてるってか）
ああ、本当に出来過ぎだ。何か良いマニュアルでも持っているのか。
宿に戻り、とりあえず一息つく。
（ニム）
＜ヤー＞
（報告）
＜街の西側湖岸の地下、約二百メートルに空洞があります。第一候補はその中ですね＞
（巨大洞窟か。街の人達の話に全く出なかったわ。侵入ルートはある？）
＜空洞は湖に開いていますが、空洞内部が水に満たされているわけではありません。ですが開口部の水深も約二百メートルです。もう一つ、通路らしきものがあるようです＞
（それは人工ってこと？）
＜はい。通路の途中に何かのシステムがあります＞
（生きてるの？）
＜わかりません。私に対しての反応はありません。同様に第一候補も。空洞中に全長三百メートル弱の人工物がありますが、私の呼びかけに反応はありません。完全に沈黙しているのか、カムフラージュなのか、私のセンサでは判別できません＞
（そりゃ多分…生きてるのよ。あんたを誤魔化せるってのが証拠。そして、あたしに直接来てくれってことよ。いずれにせよ行かなきゃしょうがないわね。通路の入り口はどこ？）
＜端末に表示します＞
拡げた地図の上に携帯端末を置く。端末のモニタにここで書かれた地図よりはるかに精密な平面図が表示され、暫定データで空洞と通路が上書きされる。
（領主一族の墓所か。ベタね）
＜どうされますか？＞
（潜るのは水より地下の方がいいかな。まずはね）
＜ヤー＞
（あ、それからさあ、あんたのいるところから生体反応を検出できない？ 集団で捕り物をやってるようなやつ）
＜ちょっとお待ちください＞
待つ間にカップ一杯のお茶を飲む。
＜らしいものがありました。街の東方約2.5キロメートル＞
（高見の見物ができそうなポジションはある？）
＜あります＞
（じゃ、そこに連れてって。五分後にここの屋上で合流）
＜ヤー、エリス＞
荷物の二重底を開け、必要な装備を取り出す。宿のロビーでお城見物に行くと告げ外出、屋外階段へと回り込む。人気がなくなったところで遮蔽装置で姿を消した。
捕り物はもう終わりかけたところだった。
林が点在する草原を、盗賊たちは散開した騎手に追い立てられ散り散りになり、集落から引き離されながら待ち構えた捕り手に捕まっていく。勝手知ったる庭なのだろうが、兵たちの手際がいい。やはりよく訓練されている。
最後の一人が捕まって、警備兵は一団にまとまりサダルバリの街に向かっていく。見渡しの利く高台の上から、エリスはテレスコープを覗く。
「指揮官はあいつみたいね」
騎手の一人がそれらしい動きを見せている。まだかなり若い男だ。一団の先頭につき、脇に一人づつ騎手を従える。徒歩の兵に合わせ馬の足並みを揃えている。
「…まあ、一応記録しといて」
＜ヤー＞
（ホントに良い眺めでいやがんの）
サダルバリ城外郭のテラスから街を見下ろす。山の向こうに落ちかけ、少し色合いを変えた太陽の光が街並と湖面を照らしている。湖面の照り返しがチラチラと彩りを添える。
さらに出店の食べ物が美味しい。甘みを抑えたワッフルのようなものにカリカリに焼いたベーコンみたいな塩漬け肉とサワーキャベツだと思う野菜を挟んでいる。甘みと塩気と酸味がよく合っている。
「おじさーん、もう一つくださーい」
言いながら小銭を取り出す。ああ、現金は貴金属と宝石を換金して手に入れた。一応念のため。
外郭の城門側が少し騒がしくなる。ベーコンサンド（仮称）を手渡されながら見ると、騎手の一団が入ってきたところに人だかりができている。先程の連中だ。
「おお、帰って来なされたね」
出店の店主がにこやかに言う。
「あれ、どなたなんですか？」
「ここの若様だよ。フレドリク様だ」
「若様なんですか。人気あるんですね」
「そりゃもちろん。ここの領主様一族は昔から領民思いでね。皆気さくな方々だよ」
「へえ」
「でももうちょっとしたら寂しくなるなあ」
「どうしてですか？」
「フレドリク様は年明けから王都の学校に行かれるんだよ。うちの娘なんかへこんでてね、いくら気さくだからって若様にお近づきになれるってわけじゃないのに。ねえ？」
「え？ …い、いや何があるかわかりませんし」
「いやいやぁ、うちの娘がお嬢さんみたいに別嬪さんならわからないかもしれないけどね」
「もう…お世辞言わんといてください」
領主の息子だとわかったところで、改めてその立ち居振る舞いを見る。何か妙に親近感があるというか、見慣れているというか。
（まさかね…）
七百年だ。七百年経っている。もし推測が当たっているのなら、一体彼らはどんな手法を採ったのだろう。
潜るのは早い方がいいだろう。その答えはあるはずだ。とエリスは考えた。
人々が寝静まった時間でも、街道沿いの塔に灯りが燈っている。灯りは塔の先端にある組み合わされた木枠を照らしている。木枠は支点をいくつか持ち、操作して形を変え、その形一つ一つに意味を持たせる。アルファベット一文字や単語など。
テラにも同じような通信手段があった。セマフォア…腕木式通信機という。最も有効に用いたのは冬将軍に敗れたフランスの皇帝という話だ。
「あれ、案外侮れないのよね」
墓所から先端が見えるセマフォア塔を見てエリスが言う。
＜そうなんですか？＞
「だってあれ、手旗信号の大きな奴よ。考えようによっては光通信と言える。人が望遠鏡で見なきゃなんないけど、次の塔に見えるように形を変える、また次ってどんどん伝えてけば、国の端から端まで伝わるのに意外と時間が掛からない。人や馬車が手紙を持っていくよりはるかに早い」
＜なるほど、確かにそうですね＞
「情報量の問題はあるけどね、即時性はかなり良いみたいよ。もっとも人が操作するわけだから、そこがネックになるけど」
＜と言いますと？＞
「前に情報操作をして不正を働いたのがいたって。取引相場を操作したりね。そいつが国の相当偉いところの縁者で、その頃一騒ぎあったらしいわ。…さて、何かわかった？」
＜あなたの言う通りのようです、エリス。私のセンサでは、何かあることまではわかりますが、何であるかはわかりません。機械的に欺瞞をされているようです＞
「そう。ならセキュリティの基本から行くか」
エリスは胸元からバッジ・ケースを取り出す。部隊章を模ったバッジには彼女の一通りのデータが記録されており、艦の出入りの際当人とともに照合される。また普通に艦内を行き来できるのもこれがあるからだ。
あっさりと祭壇の奥が開いた。彼女だから反応したのかどうかまではわからないが。
「ニム」
＜ヤー＞
ニムロッドはエリスの後ろに降り立ち、遮蔽を解く。主翼のポッドから小型プローブを射出。開いた口に入るところで青白い光が瞬いた。
＜プローブ機能停止＞
「あたししか入れないってか」
＜出直しますか？＞
「いや、行く。あんたは遮蔽し上空で待機。あたしとのリンクは維持しろ。もし切れたら＜ワードローブ＞に戻り、潜水装備に換装し湖側から突入しろ。まあ大丈夫だろうけどね」
＜そこを入った途端あなたの端末が機能停止しましたら？＞
「そのときは出直すわよ」
通路の入り口でエリスは振り返った。
「そうだ、ニム」
＜ヤー。エリス＞
「待っている間にメモリバンクを整理して、なるべく多く容量を空けときなさい」
＜ヤー＞
エリスは通路の中に入っていった。ニムロッドはしばらくその場でリンクを確認し、切れていないのを知ると姿を消し空に舞い上がった。
通路は艦内通路がやたら長くなった風情だった。おそらく掘ったのだろうが、壁も照明もある。途中に行き止まりがあるが、エリスが近づくと自動で開いた。もしかすると艦内ブロックの隔壁を持ってきたのかもしれない。
かなりの距離を進み、降りてきた。端末は生きている。自分の位置を確認する。地下空洞のすぐ傍まで来ている。
最後の突き当たり。なんだ、エアロック・ハッチじゃないか。艦体を一部バラしたのか。エリスは何の躊躇いも無くその前に立つ。もう型通りだ。少なくとも自分を遮るよう作られていないだろう。
エアロックはそれまでの扉と違い、躊躇うかのように彼女を待たせてから開いた。
空洞の冷たい空気が通路の空気と混じる。彼女が足を踏み入れると同時に、上方からサーチライトが辺りを照らす。照り返した光が空洞の中の様子をおぼろげに映した。
巨大な空洞の向かって左側に、見慣れ過ぎたものがあった。＜ユニコーン＞は同型の三番艦、＜トラファルガー＞は四番艦だ。艦のどこに何があるか目を瞑ってもわかる。
「ニムロッド、第一候補で当たりだったわ。航宙フリゲート＜F.S.F.トラファルガー＞を発見した」
エリスは艦に打電する前に、その状態を見回る。艦体外板に鍾乳石がこびりついている。表面コーティングは止めているようだ。まあ当然だろう。右舷は損傷が無い。左舷は…楔形の艦体の左側一面が奇麗に失われていた。そのうち主推進機列の後半、続く左舷主砲、戦闘機動エンジンは爆発ボルトで強制廃棄したようだ。対消滅反応炉をそれで守ったのだろう。同時に艦体そのものの損傷も少ないようだ。
エリスは事務的に＜トラファルガー＞の状態をニムロッドに伝えながら、艦の後部に回った。
物資搬入ポートの下の主搭乗口。洞窟の隆起に合わせるように高さが揃えてある。外板が展開しテラス状になり、搭乗口の一次隔室が露わになっている。
今度は前に立つだけでは、二次隔室への扉は開かない。扉横のコンソールを開ける。
コンソール・モニタが点き、起動シークエンスが流れていく。使われている証拠だ。誰に？ いや、わかり切っていること。
接続コードを直接入力する。
＜-認証コードを入力せよ-＞
どうする？ 素直に行くか。
テラに行ったとき、土産物屋でブーメランを買ってもらった。おもちゃではないやつだ。ドキュメンタリー番組で原住民の末裔の人が器用に飛ばしているのを見てから欲しかったのだ。ぐるりと回って戻ってくるのを自分もやりたかった。自分で作るなりおもちゃを買うより、本物に近い方がいいじゃない。
妹たちはもっと女の子らしいものをねだったから、母は呆れ、父は苦笑いした。
ティタンに戻ってから近所の友だちの前で披露したが、うまく飛ばせない。恥をかいた後しばらくして父が休暇で帰ってきたとき、飛ばし方を教わろうとした。
男の子が欲しかった父は長女の私をお転婆に育てたものだから、母にときどき突っつかれていた。だからそのときも渋ったのだが、結局母の目を盗んで基地の公園に行った。
「まさか本気でそれで遊ぶつもりだとは思わなかった」
父さんはいった。なにを今さら。
「民芸品だぞ。その上おまえにはでかすぎる」
それでも作りは本物どおりなんじゃない？
「力任せに投げるんじゃない。角度も大事だ。ほら、こういう風に…」
父さんのこういうときの体の動きはいつもきれいだ。リズムよく、むだのない動き。
ブーメランはかたむきながら大きなカーブをえがいて父さんの手もとにもどってきた。もどったときの音があんがい大きく、じつはびっくりした。
「そもそもこいつは狩猟道具なんだぞ。下手に飛ばせなくてよかった。受け止め損なったら怪我するところだ」
う〜ん…たしかにそうみたい。重かったし。あ、そうだ。
「ねえ、じゃあものに当たったらどうなるの？ 戻ってくるんじゃないの？」
「当たったら下に落ちて、獲物と一緒に拾いに行くんじゃなかったっけな」
…なんだ。じゃあゲームなんかのアレはちがうんだ。
後で考えれば、確かに危なかったと思う。今の私なら、あれの武器としての使い方を何種類か思いつく。標的に当たれば戻ってこない物だってことも理屈でわかる。
父は私たち姉妹をわけへだてなく愛してくれたが、外で身体を動かすような遊びに付き合ったのは、私相手が最も多かったと思う。それはまあ、父自身のせいでもあるが。
子供なんて、体力の配分を考えたりしないから、帰りは疲れた私をときどき父がおぶってくれた。肩車のときもあった。
「ねえチャーリィ、こんどの休みは長いの？」
肩の上から訊いた。父は名前で自分を呼ばせていた。本当は「とーちゃん」と呼ばれたかったそうだが、母に反対され妥協したのだ。
「予定ではゆっくりできるはずだぞ。だがまあ、父さんの仕事は急に入ることが多いからなあ」
「それはいつものことだからわかってるよ。今日はあたしにつきあってくれたから、アイリスやアイリーンにもちゃんと時間さいてあげてね」
「お？ おまえは気が利くなあ」
「この前エミリーに怒られたんだよ」
「…すまん」
連邦宇宙軍の格闘術の基礎を私に教えたら、意外に飲み込みが早くて父が面白がったのだ。それ以前からたまに男の子とも喧嘩していたのだから、母が怒るのも当たり前だ。私の髪を普通以上のロングにさせたのだって、私が少しでも暴れなくなればという母の思惑があったからだが、それは失敗だった。でも髪を伸ばす癖はついた。
「ねえ」
「ん？」
「…ブーメランってそうかんたんに帰ってこないものなんだね？」
「そもそもちゃんと飛ばせないといけないし、飛ばせても手元に戻すのはコツがいるし、何かに当たればそこで落ちるし…な。それはまあ、何にでもやり方ってものがあって、やり方通りにすればなんとかうまくいくってことだよ。おまえだって飛ばすことまではできるようになっただろ？」
「うん。でも受け止めるのはちょっと怖い」
そこで父は少し笑った。顔は見えなかったけど。
「それはおまえ、まだ早いってことだな。と言うか、父さんとしてはあまり危ないことをして欲しくない。父さんも気をつけるから。な？」
いい加減母に申し訳ないと考えるようになったのだろうか、父はこのとき妙に下手に出ていた。こんなときの父にお願いをすると大抵聞いてくれたが、このときは特にねだる物を思いつかなかった。でも何か言っておくべきかと私は思った。
「…じゃあさ、お願い」
「なんだ？」
「お仕事終わったら、いつもまっすぐ帰ってきてね」
父は黙り込んだ。
「ね？」
「お父さんにも部下や同僚との仕事の上での付き合いってものが…」
「そういうのがみんなダメっていうんじゃなくて、なるべく早く帰ってきて。ね？」
また黙った。私は父がそのときどんな顔をしているか想像するのが、ちょっと楽しかった。そもそも父は流動的な休暇のほとんどを家で過ごしていた人だった。特に約束しているわけではないのにそうしていたことを、改めて約束させるのだから、このお願いはいささか意地悪なものだったのだ。
父は少しわざとらしいかと思う程度に唸ってから応えた。
「わかった…なるべくすぐ帰るようにするよ。でもなあ、そりゃ今とあまり変わらないような気もするんだけどなぁ」
「いいの。あたしと約束してくれたってことでいいの」
「そうか？」
「うん」
父が応えるのに間を置いた本当の理由を私が理解したのは、それから何年も経った後だ。
連邦宇宙軍でも最も危険度の高い部署の一つ、対広域犯罪特殊部隊。その一部隊を率いていたのが父だった。
父は私が十五になったばかりのとき殉職した。搭乗艦ごと消滅したため何も残っていない。
私との約束は守り切れないかもしれないことを、父はわかっていたのだ。だから私は後悔した。
少し後になって、そのときのことをときどき父は楽しそうに語っていたと、生き残りの父の部下が教えてくれた。
それでも、そんな約束をさせたことを私は後悔した。
連邦航宙艦＜F.S.F.トラファルガー＞の耐用年数はおよそ五十年とされていたが、それは改装を考慮せず、装備体系の変化に伴う艦体構成の陳腐化を見越したものだ。従って適度のメンテナンスさえされていれば艦そのものの寿命は延びる。現に民間に払い下げられた船の中には足掛け三世紀を生き延びているものもある。
連邦宇宙軍第三十六次造船計画に基づいて建造された＜トラファルガー＞は、基礎構造材の骨格に合わせ各種ユニットを配し、外板で覆った構造だ。ユニットの隙間には液状構造材が充填され、艦体構造維持と宇宙線対策を補い、内部構造体の保護をする。
つまり、液状構造材が程よく充填されたままなら、艦内部の状態はかなり良いことになる。
エリスは主搭乗口の二次隔室にあるコンソールパネルに自分の携帯端末を繋げ、艦体内チェックを自前でする。艦のメインコンピュータからの接触は無い。メインシステムは休眠状態でメンテナンスとセキュリティのみを行っているようだ。艦内各所でメンテナンス用ロボットが稼動しているのがモニターできる。
強制廃棄されたユニット以外の損傷はほぼ無いようだ。液状構造材の循環系も生きている。外板は、まあ仕方ない。
どうやら艦を再起不能とするまでの経年劣化も外板を除き起きていない。造船所スタッフは、＜ユニコーン＞、＜トラファルガー＞を含む試作フリゲート・シリーズを、生物的システムが最大限組み入れられた実験艦でもあると言っていたが、その目論見はうまく行ったようだ。
こんな形で結果が出るとは彼らも思わなかっただろうが…。
糸を手繰るような行動なら、何度もしたことがある。チームでも、単独でもだ。
彼女の行動様式は、軍人と捜査官が融合したものだ。眠ったような艦内の様子を、捜査官の方に近い眼差しで探るように見つめる。記録に残されているだろうこと以外にも、彼女自身が彼女自身の感触で事態を認識するためだ。
彼女にとっては半月ほど前になる＜ユニコーン＞の中の様子。八十八名の乗員がいる雑然としているが生きている艦内。同じ通路、同じ扉の並び。それに比べここは、なんだか、使える物は残らず使い切ったような風情がした。言うなれば、奇麗に片付けられた廃屋。
ブリッジまでは中央シャフトを辿りおよそ130メートル。だが真っ直ぐに向かわない。別に何かを探そうという気になったとか、そういうことでもない。適当に回り道をする。
主搭乗口の真下、最下部のシャトル格納庫。下部主砲の上を抜け前方へ、搭載機格納庫。その上の乗員共用エリア。食堂、酒保、トレーニングルーム…。中央シャフトに沿って前方の管理区画に入り、ブリーフィングルームと降下要員詰所、その上のデッキの内務班オフィス。
オフィスの扉に、写真が貼り付けてあった。眠りに包まれた視界の中にかすかな乱雑さが浮かんだ。
マルチ表示のメモリープレートじゃなく、紙焼き写真を樹脂加工したものだ。
エリスは写真を手に取って見た。
（あんたも、あたしが来るって思ってたってわけ…？）
写真の真中にルゥ・リンファがいる。リンファの後ろにファイル主任、右にデ・クリミア副主任、左に彼女が写っている。リンファが転属するときに撮ったものの一枚だ。
リンファは彼女と同期で、ファイル主任の内務班に共にルーキーで配属された。ブリッジ通信士のエレインとは喧嘩友達で、彼女はよく二人の口喧嘩に巻き込まれた。光学カメラが好きで、現像用具一式どころか引伸ばし機まで持っていて、カール・ツァイスやライカやニコンなんかが宝物の名前だった。最後に会ったのは、彼女が＜ユニコーン＞の、リンファが＜トラファルガー＞の、それぞれ内務主任になったばかりのときだ。
オフィスの中に私物が残っているとしたら、様子は想像できた。主任のデスク周りに綺麗に並べられた沢山の写真。
扉を開けて確かめようとして止めた。後でいい。写真を扉に貼り直し、今度は回り道せずブリッジに向かうことにした。
ブリッジの扉は何事も無く開く。それで彼女はエリス・ヴァイゲルトとして既に認識済みだとわかる。非常灯がブリッジ室内を淡く照らす。中央の艦長席に作り付けられたコンソールだけが起動している。
もう一度、ルーチンワークだ。艦長席の肘掛けを開き、掌を当て指紋と血流パターンを読み込ませる。個人コードをキーボードから入力すると、コンソール隅のカメラが一瞬煌めき彼女の網膜を写し撮る。
コンソールのインジケータに起動スタンバイの表示。
「＜サイザム＞、緊急モードで起動せよ」
メインコンピュータに命じる。ブリッジ全体を照明が照らし、メインスクリーンに艦のコンディションを示す視覚パターンが舞う。
メインコンピュータ＜S.I.Z.A.M.9-430D＞は休眠モードを解いた接触者を確認し、決められた返事をした。
＜メインシステムは休眠モードより緊急モードへ移行しました。稼働率15％を維持しています＞
そして、決めておいた返事を付け加えた。
＜お久しぶりです。…少佐になられたんですね＞
「ええ、＜サイザム＞」
＜お元気でしたか？＞
「ええ。この外にいる、あなたが知っている連中のほとんどはまだ元気よ」
＜そうですか、それはよかった。…ところで、あなたは何故偽名をお使いなのですか？＞
「いざというときは私がここに来た記録を誤魔化すためよ。ただのラベリング。よろしい？」
＜了解。『外』の状況に不確定要素があるということですね＞
「そう。『ここ』の性質が大問題だからね。捜索に絡んでいるのが私たちだけならどうにでもできるけど、私たちはどちらかといえば割り込み組だから。まあ、他にもいくつかうちの艦長が引っ掛かってることはあるけど、こちらは今のところあの人のカンのレベルよ」
＜クライン艦長のカンなら侮れませんね＞
「いつも当たらなきゃいいと思うけど、ありゃ何とかと紙一重ってのだから、覚悟しとかなきゃね。ということで、私関連のデータはラベリングの上隔離しておくこと」
＜了解＞
「じゃあ、あなたの持っているデータと私たちのものを磨り合わせることにしましょうか。…＜ワードローブ＞とのデータリンクをスタンバイ」
＜了解…シャトルクラフトは代替わりしたんですね＞
「ええ、＜バック・パック＞の後継機よ。ここのはどうなったの？」
＜北方の大陸でのベースとして活用しましたが、三百四十七年前に機能停止しました。AI他システム及びメモリーは私のサブバンクに移されましたが、それ以降稼動するシステムは私のみになりました＞
「そう、もしかして、寂しかった？」
＜ご冗談を、少佐。私は機械ですよ…リンク・スタンバイ＞
「データリンク、開始」
＜開始しました＞
機械同士の処理が始まる。しばらくエリスは、手持ち無沙汰と言えないでもない。
「ねえ？」
＜はい、少佐＞
「あなたの時計では、私は何歳になってるの？」
＜七百三十二歳です。少佐＞
「その歳まで生きている可能性があるのはあたしだけってか…」
＜はい、少佐＞
「最初に来るのがあたし以外だったらどうするつもりだったの？」
＜それは、それ相応の対処パターンはいくつか用意していましたが＞
「が？」
＜コール艦長が言うには、一番シンプルなパターンを残しておくのも一興だと＞
「一興で済ましたか、ヤツは」
＜申し訳ありません、少佐＞
エリスは艦長席に座ると、両手を組んでゆっくり伸びをした。そのときの彼女の表情は、＜サイザム＞のメモリーに無い初めて見るものだった。
「ねえ、愚痴言ってもいい？」
＜どうぞ＞
「あたし、死なないんだよね。事故はともかく、病気らしい病気にもならないしさ」
＜はい、存じております。この会話は少佐ご自身でなければ機密条項に相当するものです＞
「七百三十二歳でも本当に生きているかもしれない。肉体年齢も予測ではほぼ変わらないらしい。人によっては夢のような話よね」
＜そうかもしれませんね＞
「でもちょっと考えればわかるけど、それだけ生きてるうちに、知ってる人たちがどんどんいなくなってくんだよね。十五のときに父さんが死んだけど、記録されてる？」
＜はい、フランシス提督ですね＞
「特進で提督、死んだときは大佐ね。でまあ、すごく悲しかったわけよ。その後殉職や病気や事故や、何人か、よく知っている人たちがいなくなっていった」
＜はい＞
「かなり前に自分の体質のことを知ったとき、特別扱いで色々フォローがあって、まあ受け入れられた。でもたま〜に落ち込んだりしたときにね、考える。何年も何年も先のことをね。……だからね、さっき寂しかったのかって訊いたのよ」
＜サイザム＞は少しの間「考えた」。その処理速度から、ヒトの及ばない密度のデータがその中を流れたが、それでもやはり、細やかな感情を解釈することはできなかった。
もちろん、その「振り」はできる。だが「振り」では駄目だと判断する。
だから＜サイザム＞は、自分に残るデータのままを話すことにした。
＜少佐、やはり私は機械ですので、機能に無いものはどうしようもありません。時間も私にとってはタイマーのカウントに過ぎません。ただ、私の中に残されたあの方々の情報を定期チェックするのは、「好き」だと「言える」のかもしれません＞
「…好き、か」
＜はい、私の思考パターンに連なる、私の一部でもありますから＞
妙に人間臭い答えが返ってきたため、エリスはふと口元が緩んだ。そして、機械の返答としてでなく、多くの知人を見送った「先輩」の言葉として、それを素直に受け取ることにした。
連邦の公文書館の最深部に、一種の症候群として記録されている症例がある。
突然変異と仮定された遺伝子異常の一種である。
それは主に身体の代謝機能に変化を及ぼし、その『病』に侵された個体から命数の制限を奪った。言い換えれば、寿命という枠が取り払われた。
最初に発見された『患者』の辿った道は、ここでは語らない。
ただ、彼の命と引き換えに、この『病』は人為的に再現不可能と判明した。そして出現確率が数十億分の一以下と弾き出されるに至り、表立って研究される対象から外れ記録も封印された。
初めその病は羨望の下に≪Extended Life of Fortune≫と呼ばれ、しばし後、失望がその呼び名に皮肉と悪意を込めた。やがてお伽話に等しいとされ一般には忘れ去られたが、わずかな理解者がささやかな意味を加え直した。
彼らは、イングランド出身の言語学者であり作家の著した古いハイ・ファンタジー小説に因み、その『病』を、≪E.L.F.（エルフ）≫と呼び換えた。
＜トラファルガー＞に残る記録の、最初の一年分に目を通したところで、エリスが切り出した。
「＜サイザム＞、ガイド役は誰にした？」
＜と申しますと？＞
「ここの人間に対する説明役が必要でしょ？ いずれこの世界に決着をつけるために、その段階を踏むために、あなたとこの艦のことを理解している人材が要る。それはたぶんここの土地の領主一族で、彼か彼らにわかりやすくするためにヒトの姿をしたガイドが要る」
＜そういう意味でしたら、コール艦長です＞
「やっぱりエディ・コールか。ロボット？ それともホログラム？」
＜メンテナンスのこともあり、ホログラムです＞
「＜彼＞と話がしたいわ」
＜「知っていること」は私と変わりありませんが？＞
「いいのよ」
＜了解しました＞
ブリッジの照明がいくらか落とされると、パイロット席とメインスクリーンの間にある狭い舞台状のスペースに、人物の姿が結像する。
エドワード・トーマス・コール少佐だ。エリスが最後に見た彼から比べると、かなり老けた姿に設定されている。
「やあ、エルフの姫君」
笑いながらそう言った。
「その呼び方は全く定着してないわよ。あたしの方は二年振りなんだから」
笑いもせず応える。
「ああ、わかってる」
コール本人のできる限りのデータが集約され解析されたパターンが、ホログラムにバツの悪そうな表情を採らせた。充分に習熟したAIなら、ほぼ彼本人と同じ振る舞いをするように見える、ようになる。
「随分貫禄がついたじゃない」
「君は相変わらずガキのようなツラだな。さぞ『騙し討ち』に磨きがかかっただろ」
「ほっとけ」
＜コール＞は微笑みながら、彼女の言葉を待つ。
「いくつか訊きたいことがある」
「＜言いたいこと＞じゃないのか？」
「どっちでもいい」
「そうだな」
エリスは艦長席から立ち上がり、パイロット席の手前に立った。
「確認するわよ。＜トラファルガー＞がここに擱座したため、乗組員は外部への連絡手段を模索しつつ、この世界に暮らす人々のフォローに回ることにした」
「そうだ」
「＜外＞と＜中＞の時間進行差に気づき、外からの救援が来た際、自分たちの後継者が必要と判断し、そのシステム作りをした。その成果の一つがこの土地の領主一族である」
「そうだ」
「システムに関する人材育成に、あたしたちのアカデミーのカリキュラムを応用した」
「そうだ」
「隠すべき部分は隠しながらも、基本的な行動原則を維持するためね」
「そうだ」
目を閉じたエリスの次の言葉を、＜コール＞は黙って待つ。
「よくもそこまで面倒な手法を選んだわね、馬鹿正直にも程があるわ」
「…すまん」
「しかも、この世界の造物主に等しい存在に喧嘩を売り、あまつさえ脅迫するとはね」
「ちょうど吹き飛ばさなけりゃならないエンジンの出物があったんだよ」
「レスキューのトップチームがやることか」
「だから、すまん。…そうだな、あのときいるべきだったのは、俺じゃなくて君の旦那だ。彼ならあの＜大家さん＞の出鼻を挫いて一旦脱出し、援軍連れで戻ってこれただろうな」
「そうかもしれないけど、戻ってくるまでにこっちで経過する何年か十何年かに対応できたかわからないわよ。大混乱だったんでしょ」
「それについちゃ、君らなら俺たちより簡単な手がある」
「…うわ。やな想像した」
「君を置いていけばいい」
「あ〜やだ、ホンマに嫌。あの人ならやりかねへんからもっとイヤ」
＜コール＞は大声でひとしきり笑うと、エリスの次の言葉を待つ。
「…まあ文句を言えばきりが無いけど、ベストじゃなくともベターには違いないわ」
「そうかい？」
「この艦の名と部隊章を受け継いだ連中の評判は至極良い。事情を知らなけりゃ不気味なくらいよ。それに、領主の息子たちの所作を見たけど、懐かしさで一杯よ。ルーキーの頃を思い出すわ」
彼女は表情を和らげ、精一杯優しい声で言った。
「よく七百年も維持したわね。貴方たちはよくやったわ」
所詮彼当人に伝わるわけじゃない。声や表情など彼女の自己満足に過ぎないとも言える。
「そう言って貰えると嬉しいよ」
データで構成された＜コール＞が応えた。同時に＜サイザム＞の中のささやかな未処理項目に、評価済みのピリオドが打たれた。
＜コール＞を注釈役として起動したまま、＜サイザム＞と共に記録の先に目を通していく。
九十八名の乗員の末路もわかった。一部は事故や病気で死んだが、残りは概ねこの世界に散らばり人生を全うしていた。
ルゥ・リンファが死んだのは、奇しくもエリスが出身地と偽装したシューペリエだった。かの地で災害復旧に技術提供した後、航海保険の仕組みを作り六十八歳で亡くなっていた。彼女が設立した会社はそれほど長続きはしなかったが、数百年を経てこの世界のロイズ保険組合に相当する団体が組織される際、参考とされた。
何故写真関係の仕事を興さなかったのかと思ったが、どうやらレンズの入手・加工ができなかったらしい。
こんなこと、エレインが引き取った彼女の子供たちにどう伝えればいいのか。彼女だけではなく、親族、友人に何があったのかを伝えなくてはならなくなるだろう人々は数え切れない。あまりに多いから、エリスは一旦それらを頭の中から切り離す。帰って誰かと分け合わなければきりが無い。
上で待たせてあるニムロッドからアラーム。
「どうした？」
＜エリス、三名そちらに行きました＞
「念のため。侵入者じゃなくて関係者よね」
＜ヤー＞
「あんたはそのまま待機」
＜ヤー＞
「彼らには、俺の方から話そうか？」
「いえ、直接会うわ」
「そうか」
「その代わり、あなたに頼むわエディ・コール」
「何をだ？」
「上にいるニムロッドに、あなたたちのパーソナルデータをあげて。選択はあなたに任せる」
「いいのか？」
「あなたが知っている通り、あたしはドンパチの方の人だから相棒の思考はレスキューに最適化されていた方がいいのよ」
「了解した」
「聞いたわね？ ニム。バンクは空けたよね」
＜ヤー＞
「あんたも彼らの意思を受け継ぐのよ。いい？」
空洞の入り口となるエアロック・ハッチが開くまで、エリスは二次隔室で待つ。
隔室扉の脇のモニターから、ハッチが開くのが見えた。人影を確認せずに、扉を開け、一次隔室へゆっくり足を踏み出す。
一次隔室の縁に立ち、サーチライトの光の合間を抜けてくる二つの人影を待った。
二人はテラス状に展開した一次隔室のスロープの前で立ち止まり、彼女を見た。一人は威厳ありげな白髪混じりの髭をたくわえた男。その脇に従うように、いかにも副官然としたやや年下の男が立っていた。
彼らが口を開く前に、彼女は先を制した。
「はじめまして。私はエリス・ヴァイゲルトよ」
髭の男は彼女が何者かを訊かず、名を名乗った。
「私はベルンハルド・トゥーマス・トラファルガ。ここの領主だ」
「そうだと思いましたわ、領主様。そちらの方は？」
「イェルハルド・エンドラケン、私の近臣だ」
「そう。はじめまして、イェルハルド。そちらの陰にいる方もご紹介くださいます？」
左側の陰で、気配が揺らいだ。
「ヒューゴ、構わん」
ベルンハルドに促され、さらに一回り年若い男が出てきた。なかなかの偉丈夫だ。
「ヒューゴ・イェーオリ・ヴィゲン、我が家の筆頭武官だ」
「夕方に、御子息と一緒のところをお見かけしましたわ。あのとき御城のテラスにいたんですよ」
ヒューゴは訝しげに領主を見るが、ベルンハルドは彼に向かって苦笑しながら首を振った。
「驚かれませんのね？」
ベルンハルドは少し間を置いて答えた。
「いや、かつて無い程に驚いております。ですが、私たちは貴女の顔を知っていたのです」
そう言いながら、エリスに彼の掌にあった物を見せた。
ルゥ・リンファが撮った、彼女の写真だ。
＜個人ログ 現地経過時間４３５標準時 現地日付アンブローシア連合王国暦２２９年アンディセスメセ・ドゥディセシモ（１１の月・１２の日） ヴァイゲルト，Ｅ．＞
正直に言って、話の通じる人間がいるのはありがたい。
エディ・コールの子孫にあたるトラファルガ家は、彼の全くの直系というわけではないが、彼らが作ったプログラムにより忠実にマインドセットを維持していた。＜トラファルガー＞自体がある程度健在なこともあり、従って＜サイザム＞などのフォローはあるのだろうが、情報の劣化は本来避けられないことを考えると、彼らが注力した方向は間違ってはいなかったのだろう。その間の年月を思うといささかの感傷を覚える。
また、この国の王家がトラファルガの分家であるからには、今はともかく建国当初、エディらの持つ知識などの影響下にあっただろうことは想像に難くない。この国がいわゆる封建領主の集合体でありながら、テラの近世あるいは近代さらには連邦のシステムを思わせる部分を持つのもそのあたりの線なのかもしれないが、見方を変えれば若干の問題がある。千数百年の歴史を持つ世界に干渉したとも言えるからだ。
もしこの世界が独自なものならば、異星文明との接触条項に抵触…いや、既に抵触しているか。この＜領域＞の主との件はまずいと問われれば確かにまずい。
だが、主とのやり取りの記録を見る限り、私たちによる救援が、この世界に生き延びた人々の滞在期限に当たるのは明らかである。条項云々は今私が考慮するものではないと考える。
まだ半日程度の接触ではあるが、領主ベルンハルド・トゥーマス・トラファルガは好人物だ。街中で散々胡散臭く思ったが杞憂だった。
エディ・コールらによる教育プログラムは、主にこの家の子弟教育へ応用が利いている。領主に近いほど私たちの部隊におけるメインスタッフの様相を呈し、すなわち実利と現実を適宜判断するよう意思決定の手順が組まれている。これまで問題は無かったのかと訊くと、多少はあったとベルンハルドは答えた。まあそれもそうだろう。むしろ揺らぎが無い方が末恐ろしい。
ベルンハルドの印象は、私の知り合いで言えばやはりエディ・コールに近い。私以外の誰かが彼と接触する際の参考にでもなるだろうか。
そのベルンハルドにより、私の身分は留学生から客人へと確定された。リンファを初めとしたシューペリエに赴いた＜トラファルガー＞乗組員の子孫が残っており、その関係者とすることができたのだ。
そのおかげで、トラファルガ家側の記録を自由に閲覧できるようになった。ベルンハルドによれば、王都の図書館などへの出入り許可も取れそうとのことだ。立場が物を言うのはかなり久々で気分がいい。潜入工作をしなくて済むならそれに越したことは無い。
近日中に子息フレドリク（笑）・シグ・トラファルガが、年明けに入る王都軍学所の下見に行くから付いて来ても構わないと申し出があったが、悪くはない。
以上、定期ログへの覚え書き。
サダルバリ城本郭の湖に面した南翼に客室を充てがわれた。質素だが調度品がよくまとまった部屋だ。
（え〜と、これは客室ゆうか、宿舎と言わんか？）
端末をサイドテーブルに置き、ソファに寝そべって部屋中を眺める。
ドアがノックされる。
「よろしいですか？」
若い男の声だ。フレドリク・シグのようだ。
「ええ、どうぞ」
ソファに座り直して応える。
「失礼します」
フレドリクが入ってくる。十五歳というが、年の割りに長身なためか実年齢より大人びて見える。顔立ちはベルンハルドによく似ている。年を取ればそっくりになるかもしれない。
フレドリクの脇から男の子が滑り込んできた。小さな体を伸ばしエリスを覗き込むように見る。
「誰？」
「すみません。イェルハルドの子供のクリステンです」
「あら。はじめまして〜クリス」
声を掛けられたクリスは急にもじもじしてフレドリクの後ろに隠れる。
「隠れんでもええやんか、お姉ちゃん怖ないで」
「いえ、騙されないでください。可愛い子ぶってるだけです。こいつ女兄弟に挟まれてんですから。そもそも綺麗なお姉さんが来てるって聞いたから連れてけって付いて来たんですよ」
「ふ〜ん…」
エリスはフレドリクの横に回り込み、膝を屈めてクリスと目線を合わせる。クリスは金髪碧眼の女性を間近で見るのは初めてだった。見惚れて頬が赤くなる。
その隙を突いてエリスは彼の脇の下に手をいれ、おもむろにくすぐった。
「そうなんか〜？」
クリスはたまらず叫んだ。
「おマセさんやな〜」
笑い声が苦しそうになるのを見計らってくすぐりを緩めてやると、クリスは一目散に逃げていく。
「…勝った…」
ニヤニヤしながら見上げると、フレドリクが苦笑いしている。
「どうしたん？」
「いえ」
「なに？ はっきり言わなあかんて」
「いえ、シューペリエ訛りを聞くのは珍しくて、ちょっと違和感が…」
「違和感て…あんな、訛り言うけど、あたしからしたらあんたの方が訛ってんで」
「あ、それもそうですね」
「な？…ま、それはそれでええとして。用はなに？」
「僕の王都行きに付いて来られるか確認するように父に言われたのと、何か要る物がないかと思いまして」
「王都行きかぁ…明日でしょ？ う〜ん、急やとゆうたらそうやけど。ええ機会やから付いて行きます。それと、要る物か…」
「殺風景でしょう、この部屋。必要なものは一通り揃ってますから、後はお客に選んでもらうんです」
「効率的なんかそやないか、わからんな」
「そうでしょ？ 変な家風ですよね」
少年らしく笑った。変だけど、そういうものですから、といった感じだ。
「明日立つんやから、大きな荷物は置いといてもらうとして、今んとこ、後はええわ」
「そうですか。では父にそう伝えておきます。じゃあ僕は準備がありますので。何かありましたらドアの脇の紐を引いてください」
「うん、ありがとな。フレディ」
「え？」
「あ…、ごめんな。あんたとほとんど同じ名前の人を知ってるから、つい同じように…」
「ああ…いえ、いいですよ。そう呼んでも」
「じゃあお言葉に甘えさせていただきます」
「はい」
ドアを静かに閉じ、フレドリク・シグが去っていった。よくできた子だ、とエリスは思った。一見固そうだがそれなりにさばけた性格のようだったから、そこは少し安心した。
（でも、捻くれ者には嫌われそうちゃうんかな〜）
王都軍学所は、連合王国王都トゥバン内郭の一角にある。各地の領主及びその家臣の子弟に門戸を開いた国立学問所だ。
連合王国は世界的にも進んだ海軍を持つが、陸軍は持っていない。事あらば領主に充てられた兵役義務に基づき瞬く間に連合軍が形成される仕組みになっている。学生たちはその際のいわば士官候補生と言ってよい。就学期間が軍学以外の学問にも割かれるようになった今も、軍学所と名乗るのはそういうことからだ。
年長の学生たちの中でも優秀な者は、正規教官から任じられ指導助手として年少者の監督補佐をすることがある。エリートとして認められたようなものだ。
南寮長も兼ねる北辺伯ライムンド・トーレスの息子アラルドは、明日から下見に来る学生らの受け入れ準備に徹夜をして、大あくびをしながら寮への渡り廊下を歩いていた。
気づかなくとも仕方のない程度の物音がした。
アラルドは反射的に物音の方角を見る。鳥たちが啼きながら羽ばたき立つと、静かになった。だがアラルドは注意深く見続ける。
もう一度物音がした。今度は小さな叫び声もした。かなり遠くの木陰だ。アラルドは足音を立てないように渡り廊下を来た方向と逆に回り込む。
木陰の様子がどうにかわかる窓際まで来た。見ると、幼年科の生徒が数人一固まりになっている。そのうち一人が木に押し付けられている。
（喧嘩じゃないな）
アラルドは一瞬で断じた。口を押さえられ一方的に腹を殴られるのが喧嘩であるものか。いや、そういえば喧嘩だと主張してやった側を庇ったヘボ教官もいたな。ああ胸糞が悪い。
アラルドは怒鳴りつけようと深呼吸した。が、怒鳴る前に助けが入った。
助けに入った男の顔を見て、アラルドは思わず身を隠す。
（アルフォンスだと？）
割って入ったアルフォンス・ディルガンは、いじめていた生徒たちを引き剥がすと、殴られていた生徒を庇った。一喝すると生徒たちは逃げていった。アルフォンスは優しそうに殴られていた生徒に手を貸して立たせる。実に立派なものだ。
アルフォンスはマンスシャフトの名家の長子で、ついこの間まで軍学所の臨時教官を勤めていた。一身上の都合で正規教官になる前に職を辞したのだ。
だが、指導助手であるアラルドはほとんどの生徒・学生が知らないことを知っていた。
アルフォンスは辞めさせられたのだ。教官の立場を悪用し生徒・学生の不祥事を揉み消すことで軍学所内に一種の裏コネクションを作ろうとしていたからだ。単なる辞職扱いなのはディルガン家の働き掛けだ。そう、グラフィアス主任教授が苦々しげに教えてくれた。それが何故こんなところで出てくる？
どういうことか問い詰めてやろうとして、まず殴られていた生徒の顔を確認しようと見ると、アラルドはまた身を隠した。
殴られていたのはデミトリス・アルワイドだった。歴代最高の名家と謳われながら大汚職事件で没落し、いまだ再興ならないアルワイド家の息子。
ここで詰問してどうこうなる話ではないかもしれないと直感が語った。ならば告げ口のようで嫌だが、懇意にしている教官に報告するくらいしかできない。
アルフォンスはデミトリスを宥めながら医務室の方向に連れて行った。
このとき、アラルドはデミトリスからアルフォンスを引き離すことができたはずだった。しかし何故かそうする判断がつかなかった。
彼本人は否定するかもしれない。覇気の無いデミトリスを、アラルドは内心好きではなかったのだ。
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